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世界のヒバクシャ

2. 放射性廃棄物投棄

第4章: インド・マレーシア・韓国
第2部: トリウム汚染―マレーシアの日系企業

防護措置取られず

 午後9時。私たちは残業を終えて帰宅した電気技士の袁照棋(イエン・チャウ・ヒー)さん(41)の自宅を訪ねた。ブキメラーの隣町メンゲレンブーに住む袁さんは、エイシアン・レアアース(ARE)社が操業を始めた1982年4月から4年間、同社で働いた。

 「会社を辞めたのは、がんになるのが怖かったからさ」と言う袁さんのそばで奥さんが、5人の子供と内職の袋づくりをしながら「何も言わない方がいいよ」と、心配そうに何度も声をかけた。1988年7月、イポー高裁で住民側の証人として証言した後、袁さんは元の上司から脅されたという。以来、彼は貝のように口を閉ざしてしまった。

 その彼が「日本から来た新聞記者なら…」と会ってくれた。緊張した表情で、せきを切ったように話し始めた。

 「1日3回、工場内を巡回して、電気施設の管理を任されていた。むろん、放射線のことについては何1つ知らされていなかったし、工場内に危険を知らせる標識もなかった。防護措置なんて一切とられていなかったさ。作業着のまま家へ帰ったしね。敷地内に散乱したトリウム廃棄物は、洗い流して排水管からそばのセロカイ川に流していたよ」

 パパン村で廃棄物貯蔵所に対する強い反対運動が起き、新聞で報道されるようになって初めて、袁さんらはトリウムが放射性物質であることを知った。会社はそれでも「何の心配もない」と言い続けた。

 「会社を辞めて転職して、給料が1,300マレーシアドル(6万5千円)から700ドル(3万5千円)と半分近くに減ってしまった。でも、命より大切なものはないからね。 辞めたことは後悔していないよ」。こういう袁さんだが、家族や自分の健康となると「とても心配なんだ」と不安そうな表情をみせた。

「投棄所指示なし」

 呉東富(ウン・トン・フー)さん(45)は運送業者で、メンゲレンブーにガソリンスダンドを持つ。1983年から2年間、AREと契約し、廃棄物の処理に当たった。

 「オレは会社から廃棄物はトリウムケーキだと教えられていた。肥料になるともね」。スタンドの事務所で会った彼はこう切り出した。「廃棄物はダンプカーに積んで、工場裏のスズの廃坑跡に捨てていた。ほかにも家庭用のゴミ捨て場や野菜畑、川にも捨てたよ」

 会社からは投棄場所について特別の指示はなかったし、いろいろな場所に捨てていたのは会社もよく知っていたはずだという。この呉さんの証言に対して、AREのマイケル・ウォン支配人は「捨てる場所はちゃんと指示していた。契約運送業者が勝手によそへ捨てたんだ。監督が不行き届きだった点は反省しているがね」と反論する。

 呉さんは、雇っていた1人の運転手が廃棄物を扱っていて手などにやけどの症状が出たことや、地元の住民が彼のスタンドでの給油をボイコットし始めたため、AREとの契約を破棄した。

 スコールが上がった午後、汚染された廃棄物運搬用のダンプカーを捨てた現場へ案内してもらった。赤茶けたボディーにツタが絡まっている。すぐそばには民家や自動車修理工場がある。

 3年前、日本の放射線遺伝学の専門家が、このダンプカーの放射線量を調べた。その結果、職業人の線量限度(年間5レム)を超える7.8レムの放射線が検出された。