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原爆・核Q&A

Q. なぜ原爆が投下されたのですか

広島に投下された原爆のきのこ雲(米軍撮影・原爆資料館提供)

人類史上、最悪の大量破壊兵器が核兵器です。米国によって最初に開発されたのが原子爆弾(原爆)であり、広島と長崎が、その標的となったのです。

米国は1939年から原爆の研究を始め、「マンハッタン計画」として国を挙げた多額の予算をつぎ込み、強い破壊力を持つウラン型原爆とプルトニウム型原爆を完成させます。しかし、実は完成する前から戦争相手の日本の都市に使う方針を決めていました。

戦争末期になると米軍は日本の主な都市を次々と空襲します。人口密集地を焼き払い、子どもたちを含む非戦闘要員を平気で殺す攻撃はエスカレートし、1945年3月10日の東京大空襲では約10万人が犠牲となりました。

そして米国は「戦争を終わらせる手段」だとして、原爆の投下を着々と準備していたのです。戦争終結後の世界で、ソ連より優位に立つ思惑もあったとされています。

日本の都市で、米軍が原爆の投下目標にしたのは広島と小倉(現在の北九州市)、新潟、長崎でした。その中から広島がウラン型爆弾の第1投下目標に決まります。広島市は明治時代からの軍都で、日清戦争、日露戦争などを経て海外に部隊を送る陸軍の一大拠点として機能を拡大してきました。

その広島への空襲を米軍はあえて控えていました。原爆の効果を正確に調べたかったからだと考えられています。1945年年8月6日、朝から晴れた広島ではT字形の相生橋を目標に搭載機エノラ・ゲイによって人類初の原爆リトルボーイが投下され、午前8時15分、現在の原爆ドーム近くの島病院の上空、約600メートルで、さく裂しました。

続いて、3日後の8月9日には長崎にプルトニウム型原爆のファットマンが使われました。最初は小倉が第1目標でした。その日、視界が悪くて落とせなかったために原爆の搭載機が第2目標だった長崎に向かい、午前11時2分、市中心部の北に当たる浦上地区に投下したのです。

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Q. 原爆投下で、どんな被害が出たのですか

中国新聞カメラマンの松重美人さんが1945年8月6日午前11時すぎ、御幸橋西詰め(現在の広島市中区)で撮影した写真。被爆当日の市民の姿を捉えた

原爆の特徴は大量の熱線、爆風、放射線です。広島の爆心地の地表温度は、3千~4千度にもなりました。熱線と爆風で広島は半径2キロ以内のほぼすべてが焼け落ちました。

人々は全身にやけどを負いました。放射線を浴び、下痢や脱毛などの症状を起こして突然亡くなる人も多くいました。約35万人の市民や、軍人らがいた広島市では1945年の末までに14万人(プラスマイナス1万人)が犠牲になったとされていますが、推計値にとどまっています。翌年以降も、やけどや白血病などで亡くなる人は少なくありませんでした。

原爆では、10代前半の死者も目立ちました。空襲の火災で延焼しないよう、家を壊して空き地を作る「建物疎開」や、軍需工場などには中学や高等女学校の生徒が数千人、動員されていたからです。

一方、当時の人口が24万人だった長崎では、原爆によって45年末までに7万3884人が亡くなったとされています。被爆5年後の長崎市原爆資料保存調査委員会の推計であり、その数字が長く使われてきました。

被爆の影響は戦後も続きました。広島と長崎の被爆者は何十年も後になってから白内障やがんを患う可能性がやや高いことも分かっています。ただ低線量の放射線を浴びた影響は、はっきりと解明されていません。

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Q. 被爆地の復興はどう進んだのですか

広島の復興ぶりを伝える1948年8月1日の中国新聞朝刊。「NO MORE HIROSHIMAS」と英語の訴えもある

市街地が壊滅した広島では都市機能が失われ、被災者の医療・救護も困難を極めました。その中で復旧・復興に向けてさまざまな人たちが自らの負傷や被爆にかかわらず奮闘しました。

広島電鉄の路面電車の運行再開を巡る逸話が象徴的です。市内線の123両のうち108両が被災し、線路も大打撃を受けました。しかし、わずか3日後には広島市の己斐と西天満町の1・2キロで一番電車が走りました。戦時中から運転士や車掌として働いていた広島電鉄家政女学校で生き残った10代の少女たちも運転再開に大きな役割を果たしたのです。

中国新聞社は社員の3分の1に当たる114人が原爆で死亡しました。しかし廃虚から立ち上がる街で新聞発行に全力を尽くしました。

海外からの支援も欠かせませんでした。スイス人で赤十字国際委員会のマルセル・ジュノー博士は原爆投下後の広島に医薬品を届け、救護所で献身的な治療に当たりました。米国人のフロイド・シュモー氏は家を失った人たちのために「シュモー・ハウス」と呼ばれる住宅を建設しました。

広島市民の住民投票を経て、1949年には「広島平和記念都市建設法」という国の法律が制定されます。それを生かしてさまざま復興事業が進みました。その一つが建築家の丹下健三氏が設計した平和記念公園の整備です。1952年の原爆慰霊碑の建立に続き、1955年には原爆の惨禍を国内外に伝えるための原爆資料館が開館しました。

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Q. 原爆の被害を受けたのは日本人だけですか

平和記念公園にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑

当時、日本が植民地支配した朝鮮半島の人々も被爆しました。中には、強制的に連れてこられ、広島や長崎で働いていた人たちもいました。

広島の平和記念公園には韓国人原爆犠牲者慰霊碑があります。

東南アジアなどから広島文理科大(現広島大)などに留学した学生も被爆しました。

また現在の広島県安芸太田町の安野発電所の工事に強制連行され、広島に収監中だった中国人たちもいました。さらに爆撃機が撃墜されて捕まり、広島に収容されて被爆死した米軍の捕虜たちの存在も忘れてはなりません。

戦前に米国などに渡った移民の子どもたちで、父母の国で教育を受けるために広島にいて被爆した日系人もいました。

外国で暮らす在外被爆者の援護策は以上のような歴史を当然、踏まえるべきです。

その多くは戦後、救済が置き去りになってきました。

厚生労働省によると、日本国外の被爆者健康手帳の所有者は、2022年3月末時点で30カ国・地域に2658人。

援護策は少しずつ改善されてきましたが、救済への課題はまだ残っています。

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Q. 広島に来る外国人が増えていますね

広島の平和記念公園で演説する米国のオバマ大統領
(2016年5月27日)

平和記念公園を歩くと、海外からの観光客が多いことに驚かされます。

各国の政治家や政府関係者、著名人たちの広島訪問も絶えません。

2016年5月27日には米国のバラク・オバマ大統領が平和記念公園を訪れ、被爆者とも対面しました。原爆を投下した国の現職の大統領として初めての訪問でした。

「核兵器保有国は核兵器のない世界を追求する勇気を持たなければならない」と、原爆慰霊碑の前で演説しました。

それ以外にも、世界に影響力を持つ人たちが広島に足を運んできました。1981年にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が平和記念公園を訪れました。「平和アピール」を読み上げ、「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命を破壊します」と語り、世界中から共感を呼びました。

ローマ教皇フランシスコは2019年11月24日に広島、長崎を訪問。広島では平和記念公園で「戦争のために原子力を使用することは、犯罪以外の何ものでもない」とメッセージを発しました。そして2023年5月には先進7カ国首脳会議(G7サミット)の首脳が広島を訪れます。

広島、長崎両市は世界8000以上の都市が加盟する平和首長会議などを通じて、「被爆地に来てください」と世界に呼びかけています。特に、核保有国の政策を担当する人たちに原爆被害を知ってもらうことには大きな意義があります。

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Q. 核兵器禁止条約とは、どんな条約ですか

核兵器禁止条約が採択され、拍手をする各国の大使たち(2017年7月7日、国連本部)
2017年のノーベル平和賞授賞式に出席したサーロー節子さん(中央)とICANのフィン事務局長

2017年7月7日に米国ニューヨークの国連本部に集まった122カ国が賛同して核兵器禁止条約が制定されました。2021年1月22日に、50カ国が加盟したことからこの条約は発効しました。

条約の前文で「ヒバクシャや核実験によって影響を受けてきた人々の受け入れがたい苦しみ」に言及しています。

新たに核兵器を持つことはもちろん、他国に譲り渡したり核兵器開発を支援したりすることも禁止しています。「核兵器を使うかもしれない」と脅す「威嚇」も違法です。

さらに核兵器の開発や使用で人や環境に被害を与えた場合、被害者支援や環境の回復のため各国が協力し合うことが求められます。核兵器を保有する国でも、核兵器を捨て去る計画を立て、チェックを受けることを約束すれば加わることが可能です。

核兵器禁止条約をつくったのは、国連本部に集まった各国政府の代表者です。ただ、各国を説得し、国際社会の関心を喚起したのは広島と長崎の被爆者と数々の非政府組織(NGO)でした。その一つ、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)は2017年のノーベル平和賞を受賞しました。その受賞演説を行ったのが広島の被爆者で、カナダ在住のサーロー節子さんです。

しかし、条約に賛同しているのは核兵器を持たない国ばかりで核兵器を持つ米国、ロシア、フランス、英国、中国、インド、パキスタン、北朝鮮、保有が疑われるイスラエルは反対の立場です。「米国の核兵器でわが国を守ってもらう」という政策を掲げている同盟国も、同様です。被爆国である日本もその一員で、広島と長崎から批判の声が上がっています。条約に参加する国を増やすには、大きな壁がまだまだ残っています。

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