「生きたい」という願いを込めて
佐々木禎子さんは2歳の時、爆心地から約1・6キロの楠木町(広島市西区)の自宅で被爆し、黒い雨に打たれました。爆風で飛ばされましたが、外傷もなく、元気に成長しました。スポーツが得意で、将来の夢は中学の体育の先生。
しかし、小学6年で病に伏し、中学へ通うことはできませんでした。白血病の診断を受け、広島赤十字病院への入院を余儀なくされたのです。入院中、お見舞いとして名古屋から千羽鶴が贈られたのをきっかけに、「生きたい」という願いを込め、折り鶴を折り始めました。その願いもむなしく、体調は次第に悪化。8カ月間の入院生活の末、1955年10月25日、亜急性骨髄性白血病のため亡くなりました。「644羽で力尽きた」などと伝えられましたが、原爆資料館は家族の証言から1300羽以上を折ったとみています。
同級生たちが呼び掛け
「原爆の子の像」の建立
禎子さんが亡くなって3年後の1958年5月5日、平和記念公園に「原爆の子の像」が除幕されました。建立を呼び掛けたのは、禎子さんが通っていた幟町小6年竹組の同級生たちでした。禎子さんをはじめ、原爆の犠牲になった子どもたちの死を悼む像を造ろうと話を持ち掛けられた子どもたちは、ちょうど開かれていた全国中学校校長会で手作りのビラを配って賛同を求めたのです。
やがて全国からたくさんの募金が送られてきました。広島市内の各学校の生徒会つくる「広島平和をきずく児童・生徒の会」が結成され、団結の会のメンバーも加わって募金活動が進められました。
年間1千万羽の祈り
原爆の子の像が建立された後、佐々木禎子さんと折り鶴の実話は世界に広まりました。そのきっかけは、禎子さんが亡くなって1年後の1956年、オーストリアのジャーナリストロベルト・ユンクが広島を訪れ、禎子さんの話を聞いたことでした。ユンクは創作を交えて禎子さんを描き、「廃墟の光」として世界に発表しました。その後、海外の文学者たちによってさまざまに作品化され、広く世界に伝わりました。原爆の子の像には世界中から年間約1千万羽もの折り鶴が寄せられます。広島市が集計を始めた2002年度から、像に届いた鶴の数は2億羽を超えました。