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世界のヒバクシャ

1. 英で最悪の原子炉火災

第5章: 英国 • フランス
第1部: 核工場40年の「遺産」―英国セラフィールド

 「セラフィールド」核工場は、英国中西部、アイリッシュ海に面したカンブリア地方にある。かつて「ウィンズケール」と呼ばれ、英国が第3の核保有国の地位を築くのに重要な役割を果たし、今も世界の核燃料再処理の一翼を担う。しかし、度重なる事故による環境汚染は深刻だ。この汚名をぬぐうため1984年、工場名をセラフィールドと変えた。核工場40年の歴史がもたらしたものはいったい何だったのだろうか。

あわや炉心溶融…

 1957年10月10日。プルトニウム原爆製造のための軍事用原子炉の計器を点検していたアーサー・ウィルソンさん(66)は、一瞬わが目を疑った。核燃料棒の周りから炎が上がっている。「火事だ」と叫んだが、しばらくだれも本気にしなかった。「そんな事故が起こるはずがない」と、みんな思い込んでいたのだ。これが、英国の核開発史上最大の事故として、今なお世界の原発関係者に語り継がれる「ウィンズケール原子炉火災」の始まりだった。

 第一発見者のウィルソンさんは、同僚らと懸命に消火に当たったが、火勢は強まるばかりだった。やがて、大爆発の危険を覚悟で原子炉へ放水の断が下った。息詰まるような放水が一昼夜以上続き、12日午後、奇跡的に火は消えた。

 原子炉から大量の放射性物質が、煙や水蒸気とともに、工場内はもちろん、周りの牧草地などへ放出された。当時34歳、若手技術者だったウィルソンさんは、他の職員と一緒に被曝した。「小さな事故は、それまでに何度もあったよ。でもあの事故はひどかった。後で聞いたらメルトダウン(炉心溶融)寸前だったんだ」と事故当時のことを話してくれた。

 事故を起こした1号炉の運転開始(1950年)と同時に働き始めた彼は、4年後に右足の不調を覚え、事故の後、左足も痛めた。5年後には、ついに働けなくなって退職に追い込まれた。

 「補償だって?そんなものなかったよ」とウィルソンさん。その後、妻にも去られ、工場から40キロ南のミロム村で12年間、ひとり車いすの生活を続けている。

事故続き汚染拡大

 彼をここまで追い込んだ1号炉は、米国の核独占政策に対抗して独自の核開発を進める英国の誇りだった。炉内に蓄積されたプルトニウムは、1952年10月、オーストラリアのモンテ・ベロでの英国初の原爆実験を成功に導いた。ウィルソンさん自身、それに貢献したことにプライドを持った時期もあった。

 「だがねえ、もう右手しか動かないんだよ。これが、ウィンズケールが僕にしてくれたことだと思うと口惜しくて…」。ベッド兼用のソファにもたれて、彼は弱々しく言った。

 彼が失業し、細々と年金生活を送る間、この核工場は発電、核燃料再処理など原子力時代の先端機能を次々と拡充して行く。同時に、事故も頻発した。

 ▽1963年11月 改良型ガス冷却炉で放射能漏れ。6人が被曝。
 ▽1970年8月 核燃料再処理工場でプルトニウム溶液の臨界事故。2人被曝。
 ▽1979年4月 再処理工場で地下への廃棄物漏れ見つかる。
 ▽1979年7月 再処理工場で火災事故。

 事故の度に、工場周辺の大地も海も厄介な放射能に汚染され、周辺の住民を不安に陥れて行った。