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ジュニアライターがゆく

Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第54号) バウムクーヘンと似島

 木の年輪のような模様をしたドイツのお菓子(かし)「バウムクーヘン」。日本で初めて登場したのは1919年3月に今の原爆ドーム、当時の広島県物産陳列(ぶっさんちんれつ)館で開かれた展覧会だといわれています。

 その5年前に始まった第1次世界大戦。日本は中国でドイツと戦いました。青島(チンタオ)にいたドイツ人たちは捕虜として日本に連れて来られ、各地の収容所で暮らしました。広島湾の似島(にのしま)(広島市南区)に連行(れんこう)された菓子職人の一人が、許されて広島の人たちに古里のバウムクーヘンを披露(ひろう)したのです。

 似島は明治時代から戦争と関わりが深い場所です。第2次世界大戦では1945年の米国による原爆投下で傷ついた多くの人たちが運ばれ、ここで命を落としました。ジュニアライターがバウムクーヘンを通じ、戦争の影を見つめました。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲かせるため、中学、高校生の25人が自らテーマを考え、取材し、執筆しています。

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捕虜の苦労 焼いて実感

手間かけて素朴な味に

99年前 ドイツ職人出品

 99年前、バウムクーヘンを作った菓子職人がカール・ユーハイムさん(1886~1945年)です。どんな人だったのでしょう。広島市似島臨海少年自然の家の職員、重末貴文さん(49)に教わりました。

 1886年にドイツで生まれ菓子職人を目指したユーハイムさんは、20代で中国・青島に移り菓子店を開きます。妻エリーゼさんと結婚。第1次世界大戦が始まり、1人捕虜として日本に連行されました。

 大阪の収容所をへて似島へ。広島県物産陳列館で1919年3月4日に始まった「似島独逸俘虜(ドイツふりょ)技術工芸品展覧会」では仲間に勧(すす)められ、バウムクーヘンを焼きます。「木のケーキ」を意味するこの菓子は、手間がかかる上、木の年輪が重なる見た目からお祝いの時に出されます。他にレモンケーキも出し大好評だったそうです。

 当時の中国新聞は「不便な似島で、どうしてこうした精巧(せいこう)なものができたかと驚異(きょうい)の目をみはる人だかり」と報じ、さらに「菓子即売(そくばい)所の前は場内第一の雑踏(ざっとう)、3人の俘虜係員が目の回るほどの忙(いそが)しさ」と書きます。

 ユーハイムさんは収容所から解放後、エリーゼさんを呼び寄せて横浜に出店しましたが、23年の関東大震災で店が倒壊(とうかい)。神戸で再スタートを図りましたが、太平洋戦争中の45年6月の神戸大空襲(くうしゅう)で、また店を失います。体調も崩(くず)し、終戦前日に亡くなりました。

 重末さんは「歴史に翻弄(ほんろう)されながらもたくましく生きた人がいたからこそ、おいしいお菓子がある。似島の平和学習で子どもたちに伝え、興味を持ってほしい」と話しています。(中1桂一葉、高2井丸貴拡)

収容所の暮らし

500人 市民と友好ムード

 ユーハイムさんが過ごした「似島俘虜(ふりょ)収容所」は1917年2月、旧陸軍第2検疫(けんえき)所の中に開設されました。ある程度自由な生活が送れたといいます。

 14年に起きた第1次世界大戦で、連合国側の日本は同盟国側のドイツに宣戦布告し、ドイツの租借地だった中国・青島を攻撃。青島にいたドイツ兵や民間人が日本軍の捕虜となり、4600人以上が日本へ移されました。収容所は全国の計16カ所に造られ、似島は大阪収容所の閉鎖(へいさ)に伴(ともな)って開設され、約500人を受け入れました。

 「当時の収容所での生活は過酷(かこく)だろう」と想像する人もいるかもしれません。確かに脱走(だっそう)を試みた捕虜もいましたが、日本は世界に認められる国になりたかったので、捕虜の扱(あつか)い方を決めた「ハーグ条約」を守り彼らに寛大(かんだい)でした。階級によって給(きゅう)与(よ)も払(はら)いました。

 捕虜は点呼や健康診断(しんだん)が義務づけられましたが、演劇や新聞発行、宮島遠足もできました。サッカーも盛んで、19年1月には広島高等師範学校(現広島大)で広島の学生合同チームと親善試合をしています。しかし、こうした友好ムードは続きませんでした。

 大戦が終わり、収容所は閉鎖されます。しかしドイツと日本は、戦争への道へ進むのです。やがて広島は原爆投下を迎えます。

 収容所跡地は現在、広島市似島臨海少年自然の家として、若者たちがスポーツや2度の世界大戦について平和学習をする場へ変わっています。島を訪れ、若者が再び戦争に巻(ま)き込まれないよう、まず歴史を知ることが大切だと感じました。(高1池田杏奈)

似島と戦争の関わり

原爆投下 1万人運ばれる

 似島は、日本の軍事輸送の拠点(きょてん)だった宇品港(現広島港)と深く関わっています。

 日清戦争の始まった翌年の1895年、大陸から帰る兵士の消毒、診察(しんさつ)をするため陸軍の検疫所が建てられました。1904年からの日露戦争で第2検疫所も開かれ、その中に第1次世界大戦中に連行されたドイツ人捕虜の収容所が造られます。

 45年の原爆投下で広島市内の病院が壊滅したため、臨時野戦病院となった検疫所には陸軍船舶司令(せんぱくしれい)部の所属部隊(暁(あかつき)部隊)が、けが人を運びました。5千人分あったという医薬品はわずか4日で底をつき、20日間で約1万人を受け入れましたが、生きて出られたのは2千~3千人だったそうです。

 遺体は検疫所などで焼かれ、戦後、発掘(はっくつ)調査が行われました。2004年にも85人分の遺骨が見つかり、息絶えた人の無念さが伝わります。今なお慰霊(いれい)のため島を訪れる人は絶えません。(高2中川碧)

(2018年3月15日朝刊掲載)

【編集後記】
 初めて似島へ行って一番初めの印象は、海がとても透き通り、きれいだったことです。「インスタ映え」しそうなほどすてきで、写真をたくさん撮りました。こんな美しい島にドイツ人捕虜の収容所があったとは、いま思えません。しかし、ユーハイムさんが島に来たからこそ、バームクーヘンが日本に上陸できたのだと思いました。捕虜という形でしたが、異文化を日本に紹介してくれたことに感謝したいです。(桂)

 何気なく口にしていたバームクーヘンに、こんなに深い物語があったと知り、驚きました。似島にいたドイツ人捕虜の人びとの生活に思いをはせて作ったバームクーヘンは、とてもおいしく、当時の味を感じることができたと思います。(田所)

 思ったよりも、ドイツ人捕虜だった人たちに、自由が与えられていたんだなと気付きました。ただ、そんな中でも脱走した人がいたという当時の新聞記事を読み、やはり自由が一番なんだということを実感しました。限られた自由の中でバームクーヘンを作る「夢」を持ち続け、実現したユーハイムさんの強さも学ぶことができました。(井丸)

 似島は瀬戸内海に浮かぶのどかな島です。しかし、その土地には数多くの歴史的な背景が潜んでいます。そのほとんどが「戦争」に関するもので、今回の取材したバウムクーヘンもそのうちのひとつでした。バウムクーヘンのように身近なものでありながら、意外な歴史を持つものが他にもあるかもしれません。似島のような場所で負の歴史が繰り返さないようまずは「知る」ことが大切だと強く感じました。(池田)

 今回の取材で初めて似島に行きました。とても静かな島で、過去に悲惨な経験をしたとは全く思えませんでした。バウムクーヘン作りも初めて体験しました。作るときに難しいところもあって、最後にバウムクーヘンを切って断面を見たときには感動しました。昔はこんなに苦労して作っていたのだと思うと、ユーハイムさんはすごいと思いました。(中川)

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