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ジュニアライターがゆく

Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第60号) 本通り商店街と原爆

 広島市の本通り商店街は1日約10万人が行き交う中四国最大の商店街です。戦前からにぎわいの中心で、被爆前に約160の店があったと言われています。原爆投下で壊滅的(かいめつてき)な被害を受けました。しかし生き延びた人たちは被爆直後から復興へと動きだします。

 被爆から73年がたち、あの日の惨状(さんじょう)を想像するのは難しくなっています。中国新聞ジュニアライターは本通りが原爆でどんな被害を受け、どうやって復興したのかを取材し、一帯に残る原爆の痕跡(こんせき)を歩きました。皆さんも被爆当時のことや復興に力を尽(つ)くした人たちに思いをはせながら、通りを歩いてみませんか。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲かせるためにジュニアライターの中学生、高校生がテーマを考え、取材し、執筆しています。

にぎわいの場 あの日は? 復興は?

あの日 商店焼失 音も人けもなかった

 本通り商店街の「あの日」を聞くために、実家が金物店を営んでいた奥本博さん(88)を訪ねました。1945年8月6日は修道中の3年。爆心地から約4・1キロ離れた学徒動員先で被爆しました。本通りの自宅に帰ろうとしましたが、途中(とちゅう)で火の手に阻(はば)まれ、7日朝に本通りにたどり着くことができました。

 鉄筋の建物は残っていましたが商店は焼失していました。音は何も聞こえず、人けもありません。銀行では、しゃがみ込んでいる生死不明の数人がいたそうです。

 自分の家の焼け跡(あと)に足を踏(ふ)み入れようとしましたが、残り火があったといいます。持っていた手帳をちぎり、「博 健在」と記して置き、祖母の避難(ひなん)先に行きました。

 奥本さんは「家族はまだどこかで生きている」と信じ、涙も流さずに捜(さが)し続けました。土蔵にいた母は脱出(だっしゅつ)していて、9日ごろ再会できました。背中にかすり傷があっただけの母は放射線の影響(えいきょう)で寝たきりになり、14日に息を引き取りました。

 店にいた父は、金輪島(現南区)に収容され、移された玖波(くば)国民学校(現大竹市)で12日に亡くなっていました。

 妹2人と弟2人も原爆で失いました。戦後は四国の親戚宅に身を寄せ、49年に広島へ戻ります。家業を継(つ)ごうと金物卸会社にも勤めましたが、金物店は時代に合わないと思い、紳士(しんし)洋品店として62年に店をスタートさせます。生まれ育った本通りに人一倍愛着があり、2001年に店を閉じてからも本通りに住み続けているそうです。

 奥本さんは本通りに立って被爆当時の写真を手に私たちに話してくれました。焼け野原からの復興のために多くの人が尽力したことを忘れないでいようと思います。(高3池田穂乃花、中3岩田諒馬)

被爆前 よそ行き姿の人々 美しい街灯

 広島本通商店街振興(しんこう)組合の事務所を訪ねました。被爆前の本通りに詳(くわ)しい、元事務局長の野田博さん(87)に話を聞くためです。

 野田さんは本通り近くの袋町国民学校(現袋町小)に通っていました。被爆前の本通りは専門店が並び、夕方になるとおもちゃなどの屋台も出ていたそうです。行き交う人はよそ行きの着物姿でした。「親に双眼鏡(そうがんきょう)や本を買ってもらったのが懐(なつ)かしい思い出」と振り返ります。

 通りを照らす「すずらん灯」はとてもきれいでしたが、金属回収で撤去(てっきょ)されてしまいます。作業する人が「のけーよー。危ない」と叫(さけ)び、根元から荒っぽく倒していたのを覚えています。「子どもながらに寂しさや悲しさを感じた」と言います。野田さん一家は本通りで衣料品店を営んでいたこともあります。「にぎわいが絶えない通りであってほしい」と願っていました。(高3岡田実優)

復興 営業再開 とにかく前を向いた

 被爆後に本通りで店を再開させ、今も営業を続ける赤松薬局の会長、赤松偕三(かいそう)さん(90)からも話を聞きました。

 赤松さんは原爆投下時、薬剤師になるために岐阜の学校に通っていました。「広島が全滅(ぜんめつ)した」と知りすぐに戻ってきました。本通りの店や自宅があった場所で瓦をめくると父母の骨がありました。その後、「もしもの時はここを掘(ほ)れ」という父の言葉を思い出し、庭を掘ると薬の疎開(そかい)先が書かれた紙や現金が見つかり「助かった。ありがたい」と思ったそうです。

 店の裏には焼け野原になった本通りで、目印になった庭石が今も残っていて、見せてもらいました。

 長兄が戦地から戻り、バラックを建てて営業を再開しました。赤松さんはとにかく前を向いて頑張ったそうです。1952年から本通りでパレードを繰(く)り広げる「広島まつり」が開かれました。多くの人でにぎわう商店街を見て「やっと復興した」と心から感じたそうです。(高2平田佳子、鬼頭里歩)

普段の街歩き 気付かなかった被爆の痕跡

 本通りの原爆被害を伝える説明板からスタートし、周辺の被爆の痕跡を歩きました。東へ歩いていくと被爆建物の広島アンデルセンが建て替え工事中でした。被爆した外壁を再利用して新店舗を造るそうです。

 さらに進むとビルの中にも「無言の証人」が。被爆建物だった旧山口銀行本通支店の窓の飾(かざ)りが展示されています。一番驚いたのはパルコ広島店。黒ずみや欠けた部分も残る被爆した「キリンビヤホール」の外壁がはめ込まれています。何度も通ったことがあるのに気付きませんでした。(高1目黒美貴)

(2018年9月20日朝刊掲載)

【編集後記】

 奥本さんから、原爆投下直後の写真を見せてもらいました。そこには遺体が写っていました。私には子どものように見え、その無残な姿が忘れられません。奥本さんも言っていたように、原爆はなくさないといけないと強く感じました。(池田)

 奥本さんの話を聞いて一番驚いたのは、原爆で両親ときょうだい4人を亡くしても、泣いたり悲しんだりしなかったということです。周りもみんな同じような状況だったからだそうです。家族と過ごすことが当たり前になってしまっている私には想像もつきません。もっとその時間を大切にしようと思いました。(林田)

 本通りが、戦争や原爆によってどのような影響を受けたかについて知ることができました。被爆後、多くの人が復興に向けて協力してきたからこそ、今の本通りがあるんだと感じました。私たちにとって身近な本通りが、平和について考える一つのきっかけになってほしいと思います。(岡田)

 赤松さんから、1952年から開かれた「広島まつり」の話を聞きました。本通りはとてもにぎわったそうで、「みんなが心を一つにした」と振り返っていました。原爆で焼け野原になった本通りが、復興したのはとてもうれしいです。(岩田)

 広島県民のみならず、観光客にも親しまれている本通り商店街。取材を通し、本通りの歴史について初めて知ることばかりでとても驚きました。今の本通りがあるのは、被爆後ににぎわいを取り戻そうと必死に立ち上がった人がいたからこそだとあらためて感じました。これから先、時代の流れとともに商店街の形も変わっていくとは思いますが、先人たちの思いを忘れることなく、広島の象徴(しょうちょう)であり続けてほしいです。(鬼頭)

 多くの人でにぎわう本通りの今の姿からは、原爆で壊滅的な被害を受けたことは想像できません。私にとって本通りは非日常を感じられる楽しい場所です。本通りに残る被爆建物が減っていく中、今回、取材を通して「影の歴史」を知ることができ、勉強になりました。皆さんも本通りに出掛けたら、この記事を思い出し、73年前の「あの日」に思いをはせてほしいです。(平田)

 本通り商店街を歩いた日はあいにくの雨でしたが、人通りは普段と変わらず多かったです。しかし、かつての被爆建物の説明板に気付き、足を止めた人は果たして何人いたのでしょうか。私も今回の取材に参加するまでは、本通りの被爆の痕跡は広島アンデルセンしか知りませんでした。にぎわう街の片隅(かたすみ)にも、「あの日」の記憶が残っていることを頭にとどめておきます。(目黒)

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