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ジュニアライターがゆく

Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第59号) 学童疎開の夏

 皆さんは夏休みを、どのようにして過ごしていますか。家族や友だちとレジャーを楽しむ人も多いでしょう。しかし、戦争中の子どもたちは違いました。

 太平洋戦争が激しくなり、空襲(くうしゅう)が続くと、被害を少なくするために児童の多くが親元から離(はな)れ、田舎(いなか)の親族の家や寺などへ移されました。これを「学童疎開(がくどうそかい)」と言います。

 中国新聞ジュニアライターは当時仁保国民学校(現仁保小、広島市南区)の3年生だった時に、上水内(かみみのち)村(今の広島市佐伯区湯来(ゆき)町)へと集団疎開した3人から体験を聞きました。一緒(いっしょ)に疎開先を巡(めぐ)り、寂(さび)しさを募(つの)らせた当時の記憶に向き合いました。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲かせるため、中学、高校生の25人が自らテーマを考え、取材し、執筆しています。

紙面イメージはこちら

親元離れ寂しい日々

証言を聞く

イチョウ囲み友と涙 太尾田さん

 セミの声が響(ひび)く広島市佐伯区湯来町の打尾谷(うつおだに)集落。「友だち2、3人でこの木を囲んで泣いたの」。太尾田(たおだ)文江さん(82)は、今も残るイチョウを見上げて涙(なみだ)ぐみます。集会所になったこの場所には、太尾田さんが生活しながら学んだ上水内国民学校(現湯来西小)の分校がありました。

 1945年5月に集団疎開しました。農家だった実家と比べられないほど食事が少なく、蒸した小さなジャガイモが一つだけの時も。少しでも大きなイモが欲しく、友だちと席を取り合いました。「まるでいす取りゲーム」と悲しそうに例えます。

 男の子が捕(つか)まえて焼いたヘビ、苦い雑草…。おなかの足しにするのに、いろいろな物を口に入れました。雨の日は、農作業を休む近くの民家に行くのが楽しみで、おはぎをもらって隠(かく)れて食べました。

 家が恋(こい)しくて、たまらない日々…。夜になると決まって行ったのが、あのイチョウでした。涙ながらに月へ向かって「仁保にも出とるのなら、お月さん迎(むか)えに来て」。自宅近くにもイチョウがあり、懐(なつ)かしさで胸が苦しくなります。それでも家族に寂(さび)しいとは伝えられませんでした。自宅へ出すはがきは先生がチェックするので「元気です」と書くしかなかったからです。

 終戦後の9月中旬、トラックに乗って仁保へ帰宅。変わり果てた市中心部の姿に驚(おどろ)きましたが、母ときょうだいは無事でした。父が軍隊から帰った日のこともよく覚えています。「子どもが怖(こわ)い体験をせず、笑顔で暮らせるように」と願います。(高3沖野加奈)

夜の静けさ 心に染みた 小谷さん

 小谷武さん(82)は、上水内国民学校の本校に通いながら、近くの正円寺で寝泊(ねと)まりしました。「暑くて眠(ねむ)れない夜もあったが、昼はお寺の近くに流れる川で遊んだことが楽しかった」。今もきれいな水が流れる打尾谷川を見て、そう思い出します。

 他の児童とは2週間遅(おく)れて1945年6月中旬、疎開しました。楽々園で父と別れ、バスに。涙がぼろぼろ滴(したた)りました。疎開先で記憶に残っているのは、規則をやぶった6年生が先生に怒(おこ)られ、罰(ばつ)として大きなカキの木に登らされたこと。そして女の子と「おじゃみ」(お手玉)で遊んだことです。夜は周囲の水の音が聞こえるほど静まり、寂(さび)しさがこみ上げました。

 8月中旬、体調を崩(くず)し寝ていたら、突然(とつぜん)母が面会に来ました。一晩中看病してくれたおかげで、翌日には元気になり、トラックで仁保の自宅へ帰ることができました。原爆で焼けた市街地を抜(ぬ)ける時、母が「見ちゃいけん」と言っていたのを覚えています。自宅は近所の山が「盾(たて)」になってくれ無事でした。

 今でも、父が疎開先へ荷物を送った時に作った木の名札を大切に持っています。上手な字で「佐伯郡上水内村 小谷武行(ゆき) 正圓寺」と書いています。「親も自分も寂しかった。この悲しみを忘れちゃいけん」と話します。(中3森本柚衣)

原爆の光・音 疎開先届く 下川さん

 1945年8月6日に広島へ落とされた原爆の閃光(せんこう)と爆音は、上水内村に疎開した児童にも分かりました。下川幸夫さん(82)は、さく裂した瞬間(しゅんかん)をよく覚えていました。

 菅沢地区の大福寺で過ごしていました。隣(となり)の分校へ登校しようと寺の石段を下りていた時、「ピカッ」と周りが光りました。そして「ドーン」という音。分校に着いても、先生さえ何が起きたのか分かりません。授業が終わって帰る途中(とちゅう)、真っ黒に変わった空から、新聞紙などの燃えかすが落ちてきました。太陽は真っ赤に見えました。

 その日から、目が真っ赤になり熱を出して寝込(ねこ)んだという下川さん。心配して訪ねてきた母と会い、仁保が焼かれていないと知り、うれしかったそうです。「原爆ほど恐(おそ)ろしいものは考えられない。二度とあってはいけない」と訴(うった)えます。(中3風呂橋由里)

学童疎開って?

 学童疎開の対象になったのは、国民学校(現在の小学校)3~6年生でした。政府が1944年に決め、東京都など都市部で開始し、翌45年には広島市や呉市へも広がりました。

 親族を頼(たよ)って地方へ行く縁故(えんこ)疎開を含めて、広島市では、全児童の6割を超(こ)える約2万5千人が疎開したとされます。広島県の山間部などへ向かいました。

 広島市内にとどまった児童の多くは、原爆に遭(あ)います。疎開した子どもたちは原爆からは助かりましたが、家に戻ろうとしても家や家族を原爆で失い、孤児(こじ)になった子も相次ぎました。

(2018年8月16日朝刊掲載)

【関連エピソード】湯来の水ささげる

 仁保国民学校の同窓生は、疎開した広島市佐伯区湯来町の水を平和記念公園(中区)周辺にささげた経験があります。「原爆献水(けんすい)」といいます。

 疎開当時6年だった故中野光夫さんの呼び掛(か)けで、2006年から始まり、町内5カ所で水をくみ持って行きました。小谷武さんや下川幸夫さんも「原爆投下の時に、あげることのできなかった水を飲んでほしい」という思いで、一緒(いっしょ)に回ったそうです。

 献水は中野さんが亡くなった12年から中断していますが、今回の取材で水をくんだ場所の一つ、鍋石明神社を訪れました。とても冷たい水で、飲むと元気がわいてくるようです。水のありがたさが分かりました。(中3森本柚衣)

【編集後記】

 今回、湯来町のお寺に行き、73年前、ここで自分より小さな子どもたちが家族と離れて生活していたお話をお聞きしました。とても貴重な経験でした。下川さんが原爆の閃光(せんこう)を見たという石段に、自分も実際に立って,その時の様子を想像してみました。

 学童疎開をしていた子どもたちが見た景色を、私たちは知りません。しかし,未来の子どもたちが寂しい思いをして、そんな景色をもう二度と見ないために,平和についてもっと知り、発信していきたいと思います。(風呂橋)

 私は今回、集団疎開中の夏休みについて初めて取材をしました。取材して驚いたことは、「夏休み」といっても、集団疎開をしていた時は、ふだん学校がある時とあまり変わっていないということです。また、夏休みなのに楽しい思い出があまりないという、皆さんの感想にも驚きました。私は夏休みが楽しいのに、集団疎開当時は楽しくなかったなんて、かわいそうだと思いました。これからも、夏休みが楽しいと思える時代が続くよう、願いたいです。(森本)

 今回の取材では、主に写真を撮りました。学童疎開の現場でどんな生活をしたのか。あの日に何を見たのか。を語ってもらううちにカメラのレンズ越しから当時の風景が見えたような気がしました。座って話を聞くだけでなく、当時の場所に行って話を聞くのも大切だなと思いました。(川岸)

 私が取材した多尾田さんは、疎開中、お腹がすかないよう体を動かす遊びをあまりしなかったそうです。一方で自分は、毎日へとへとになるまで遊び、お腹いっぱいご飯を食べました。そんな子ども時代を過ごせたことを、幸せに思いました。私たちの子どもや孫の世代までも、子どもらしく、元気に夏休みを過ごせる平和な世界をつないでいきたいです。(沖野)

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