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連載・特集

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第4部 呉空襲と今 <4> 記録集に託す

生の体験 生徒聞き取り

地域の「絆」も次世代へ

 表紙はすっかり色あせている。「父母の戦争体験記録集」。1975年、呉豊栄高(現呉高)の教諭だった呉市の棚田芙美子さん(83)が、生徒の聞き取りによって呉空襲など戦争の記憶の継承を目指した手作りの冊子だ。81年と83年にも同様に生徒に呼び掛け、記録集をまとめた。

 最初の冊子を作った年から45年。生のの体験談に触れることは年々、難しさを増す。棚田さんは昨年8月、大切に保存してきた3冊を大和ミュージアム(呉市)に寄贈した。「丁寧に語ってくれた人たちの言葉が詰まっている。悲惨な戦争が繰り返されないよう役立ててほしい」

予想以上に鮮烈

 呉豊栄高に勤務して3年目の夏、1年生を担任した当時38歳の棚田さんは、生徒に「家族や身近な人に戦争の話を聞いてみて」と呼び掛けた。「親も年を取るし、機会がないと聞けない。近い関係なら話が丁寧に伝わる」と考えた。

 生徒が聞き取った話は、予想以上に鮮烈だった。「空は飛行機の爆音をかきまぜながら赤々と燃え広がり、家々も昼のように照らしていた」「和庄の防空ごうへ逃げたが、間もなく煙がはいってきて息が出来なくなった」…。記録集として残す使命感に駆られ、生徒とガリ版を刷った。

 期間を空けて2冊目、3冊目と挑み、3冊目には、広島で入市被爆し早世した姉のことを自らもつづった。平和を願っての行動を政治主張ととられたこともあったが、「親のことなのに今まで知らなかった」という生徒の声が背中を押した。

「はだしで壕に」

 3冊目の記録集作りに参加した呉市の看護師豊田裕子さん(54)は、県外出身の両親ではなく近くに住む男性を訪ねた。当時住んでいた広地区が襲われた空襲の話を聞きたかった。一帯に残る防空壕(ごう)の跡は自分でも目にしていて、「はだしのまま壕に逃げた話がリアルで、恐怖を覚えた」と振り返る。

 戦中から戦後の飢えの苦しみも聞き取り、記録した。当時、全てを理解できたわけではないが、年齢を重ねるうち実感は深まり、平和への思いを強くした。「聞かせてもらった話は、次世代へつながないといけない」と力を込める。

 生徒と親、地域住民たちとの絆で紡いだ記録集。棚田さんは、その意義をあらためてかみしめる。「戦争の記憶と一緒に、人を思いやる心の絆が伝わっていけば、それが平和につながるはず」(池本泰尚)

(2020年8月19日朝刊掲載)

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