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軍都広島 明治期の姿 旧陸軍第5師団の辻井さん遺品見つかる

 明治時代に広島市で編成された旧陸軍第5師団の訓練の様子などを記録した文書が、広島市安佐北区の民家で見つかった。現在の同区可部出身で、同師団歩兵11連隊の軍曹だった辻井萬五郎さん(1875~1900年)の遺品。専門家は「軍都広島の様子をうかがえる貴重な史料」としている。(赤江裕紀)

 萬五郎さんは中国・清朝末期の1900年、列強が義和団の乱を鎮圧した北京での「北清事変」の戦列に加わり、腹部に銃弾を受けて亡くなった。遺品は約90点に上り、萬五郎さんの兄のひ孫に当たる正治さん(71)=安佐南区=が今年初め、実家を整理した時に見つけた。

 遺品には鉛筆描きの市内の詳細な地図計7枚が含まれていた。「白嶋ニ通ズル裏門帰射番小屋ニ到ル路上測図」と題された1枚は軍事演習用の下描きとみられ、太田川や線路の図が繊細な筆致で描かれている。「兵器支廠(ししょう)」「東白島町」の文字もあり、当時の広島駅北西エリアの状況が伝わる。

 「新兵掛備忘録」は本人の直筆とみられる。新人の教育係だったのか、原稿用紙30枚に銃の組み立てや手入れの方法、上官の呼び方などの規則を細かく書き込んでいる。実践形式の軍事演習の記録では、宇品(現南区)と戸坂(現東区)から敵が迫る想定で訓練を重ねた様子が読み取れる。敵に攻め込まれた時の現場指揮官が取るべき行動の問答集もあった。

 書類を見た勝部真人・広島大名誉教授(近代史)は「陸軍第5師団の記録の多くは原爆で消失し、ほとんど残っていないはず。明治期の軍隊の実態がよく分かり、興味深い」と評価している。

 遺品には萬五郎さんの死亡証書や手紙、帽子、肩章なども含まれていた。正治さんは「人柄や亡くなった経緯を初めて知った。当時の若者の様子を知る史料としても役立てほしい」とし、近く県立文書館(中区)に寄贈する予定でいる。

陸軍第5師団
 明治政府は各藩の藩兵を解散させ、政府の軍隊として全国に四つの鎮台を設置。1871年、広島城(現広島市中区)内に鎮西鎮台(熊本に本営)の第1分営が置かれた。2年後に広島鎮台となり、88年、陸軍第5師団に改組。市内には軍の施設が増えていった。同師団の所属部隊は日清、日露戦争、日中戦争などに出動し、近代日本の戦争に深く関わった。

(2020年9月6日朝刊掲載)

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