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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 特別論説委員 佐田尾信作 学術会議「見直し」論

今の流れ 改憲にも等しい

 先日の朝、あるテレビの報道番組を見ていて驚く。「白い巨塔」ならぬ「赤い巨塔」と題した1970年代の怪しげな出版物をスタジオで映し出し、日本学術会議を巡る問題を解説していた。これもまた、論点外しなのだろう。被爆地広島の一記者としては看過できなかった。

 学術会議の設立は広島・長崎に原爆が投下されてから4年後の49年。科学技術の独り歩きが人類の自滅をもたらしかねないと、科学者たちが憂慮し始めた時代だ。翌年の声明には「科学者としての節操を守る」という一節が入り、戦争のための科学を放棄する―と宣言した。そこで強調されたのは科学者の側の自覚であって、政権批判を主眼にする「赤い」左派の印象は受けない。

 初期の学術会議は原子力の平和利用に前向きだった。この巨大なエネルギーを原爆ではなく人類の福祉に生かそうという理屈である。52年の学術会議総会には、原子力平和利用の調査委員会設置を政府に勧告する物理学者伏見康治(後の学術会議会長)らの提案が出され、これに異を唱えたのが三村剛昂(よしたか)だった。

 広島文理科大教授の三村は戦前から業績を積み、湯川秀樹が弔辞を読んだほどの物理学者。被爆者でもあった彼は「米ソの緊張が解けるまで日本は絶対に原子力を研究してはならぬ」と説く。「声涙ともに下る」と後に評される演説である。

 一連の流れは同じ物理学者坂田昌一の遺稿集「坂田昌一 原子力をめぐる科学者の社会的責任」(岩波書店)に詳しい。それによると、こうした調査委員会は政治的な意図によって、たちまち戦争に奉仕する機関に置き換わると、三村は危惧した。提案は撤回されたのである。

 異論も受容する組織は「科学者の国会」の名にふさわしい。それだけに早くから政権には煙たがられていたと、坂田は回顧している。

 元首相中曽根康弘の側から振り返ってみる。自伝「自省録」(新潮文庫)によると、野党・改進党の国会議員だった彼は53年に渡米して原子力施設を視察。日本も乗り遅れまいと、ひそかに原子力予算の国会提案へ動き、成立させた。他の野党はもちろん与党・自由党にさえ根回ししない奇襲戦法。学術会議の頭越しだったことは言うまでもない。

 以後、原子力推進派は次々に手を打ち、56年の科学技術庁と原子力研究所の発足にまで持っていく。この時、学術会議はどうしたか。

 日米関係史研究者武田悠の「日本の原子力外交」(中公叢書)によると、政治主導で進む原子力開発に反発しつつも、一定の歯止めを掛けようとしたという。その推進役が伏見で、学術会議が表明した「公開・民主・自主」の原子力研究3原則は原子力基本法に取り入れられる。公開と民主の原則は軍事転用を阻み、自主の原則は日本独自の研究を保障した。その時代としては、最大限の見識を発揮したことになろう。

 後に中曽根は学術会議の人事について「政府の行いは形式的任命に過ぎない」と述べた。83年の首相答弁である。「戦後政治の総決算」は肯定したくないが、早くから学術会議と相対してきた彼には、異論を異論として束ねる政治手法があったのではないか。それに比べ現下の政治はあまりにも劣化が過ぎよう。

 元三重県知事北川正恭は「学術会議は政治家のトップとは違う意見となることも期待された組織だ」と先日の本紙で述べている。政府からの独立と日本の平和的復興に貢献する役割を、法によって定められたのが学術会議だ。その勧告や申し入れが政府にとって辛口だとしても、やむを得ない。決して多くはない10億円の年間予算も、日本の「民主主義の必要経費」だと考えたい。

 学術会議を坂田は「平和憲法の申し子」と言い表した。そこに政治が介入するのなら、行革どころの話ではなく憲法改正にも等しい覚悟が求められるのではあるまいか。

 一方で、国会議員までが科学研究費の使途を巡って学者を中傷する危うい時代だ。民主主義の必要経費について世論の理解が、どれだけ得られるか。学術会議の行方は、一つにはそこにかかっている。(敬称略)

(2020年10月15日朝刊掲載)

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