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「戦後」の広島 市井へのまなざし 明田弘司さん写真展「昭和を歩く」

路地裏の子どもたち・労働の日常…

 広島の「戦後」を撮り続けた明田弘司さん(1922~2015年)の膨大なフィルムを基に、「昭和を歩く」と題した写真展が広島市西区商工センターの泉美術館で開かれている。原爆により壊滅した街の一角で写真工房を始め、人々の暮らしぶりや折々の光景を半生を懸けて収めた。リアリズムあふれる作品世界は、ヒロシマや瀬戸内の歩みを鮮明に伝える記録アルバムでもある。(特別編集委員・西本雅実)

 残した写真は3万8千点を超す。その検証・デジタル化に取り組んだNPO法人広島写真保存活用の会が説明文を添えた、えりすぐりの247点を展示する。

 「あの日、あの時」「広島」「呉」「尾道・鞆の浦」など六つのテーマに分かれ、大半が1950~60年代の撮影からなる。戦禍の傷痕がいまだ濃く、同時に復興から高度成長へと突き進んだ昭和という時代を浮かび上がらせる。

 世代を超えて引き付けられるのは、着衣は粗末でもはじけるような子どもたちの笑顔だろう。川辺や海辺の路地でチャンバラに鬼ごっこ、フラフープ、たらいの行水を楽しむ。カキ打ちや小舟の操舵(そうだ)など家の仕事を手伝う。

 廃虚が広がる広島市基町(現中区)に52年完成した全面ガラス張りの児童図書館、駅前に同年に開店した広島百貨店の屋上遊園地…。今は消え去った光景とともに少年少女の歓声がよみがえってくるようだ。

 明田さんは、路地にカメラを好んで向けたことから、自身の撮影スタイルを「路地専」と称した。「ひたむきに生きる人々の姿を撮り続けた」という市井の写真家の自負からだろう。

 バラックの工房兼自宅を東千田町(同)に設けたのは原爆3年後の48年。日米開戦前に旧満州(中国東北部)へ渡り、配属された関東軍で航空写真の現像・焼き付けなどDPE技術を身に付けた。復員した呉市の実家も空襲で焼けていた。

 翌49年には「ヒロシマ・フォト・クラブ」をつくり仲間を募る。そして、日本の報道写真を切り開いた名取洋之助の肉声に触れる。米軍の占領統治が明けた52年刊行の岩波写真文庫「広島―戦争と都市」の撮影で訪れた際に促されたという。「この街の様子を記録しなさい」と。58年に「ヒロシマ」を出す土門拳とも出会う。写真の鬼と知られた土門が唱えた撮影の「絶対非演出」も実践する。

 明田さんの言い方を引けば「あるがまま」に。平和記念公園や平和大通りの建設、広島駅前の泥道を捉えた写真も遅々とした復興がテーマだと構えない。市民が行き交い、失対事業で働く姿も捉えて、日常を切り撮る。保存活用の会の松浦康高代表(65)は、「一枚一枚の積み重ねがヒロシマの記録となり、市民県民の財産でもある」と見る。

 娘3人やDPE業を支えた妻とのポートレートも展示されている。次女の森永恵利子さん(67)によれば、新築した工房2階の写場は娘たちの成長につれて子ども部屋にしたという。広島弁で言えば「やおい(優しい)」まなざしも感じ取れる「戦後」展だ。

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 「没後5年明田弘司写真展 昭和を歩く」は12月13日まで。月曜休館(11月23日は開館)。泉美術館、中国新聞社の主催。

(2020年11月12日朝刊掲載)

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