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自筆資料603枚 仙台に 井上ひさしさん「ヒロシマ3部作」 「父と暮せば」続編構想

 戦後日本を代表する作家の一人、井上ひさしさん(1934~2010年)が原爆の惨禍を見つめた戯曲でヒロシマ3部作の創作過程が浮かび上がる自筆資料があった。ゆかりの仙台市の仙台文学館が所蔵する。構想メモや改稿を重ねた原稿類など計36点603枚。再演が重ねられ海外6言語に翻訳された「父と暮せば」は、続編の2幕目を構想していた。(西本雅実)

 自筆資料の一部は、神奈川県鎌倉市の自宅から戯曲を制作する東京都内のこまつ座などへファクス送信されていた。発信日からも創作の過程がたどれる。

 「父と暮せば」(初演は1994年9月)は、初期構想では、広島市立浅野図書館に勤める男性が原爆で娘を失った20年間の筋立て。94年7月12日付発信では、題名を「太陽を二つも見た男」とも記しており、男性は米軍占領期に原爆展を企画して病に襲われる。同年8月からは「これは昭和二十三(一九四八)年の夏のさかりの数日間に…」と、生き残った娘と亡き父との対話劇を上演直前まで練っていた。

被爆2世の物語

 目の前で焼死した父福吉竹造が、罪悪感を抱える図書館員の娘美津江の胸のうちに現れ、恋心を励まし幸せを願う。「父と暮せば」について井上さんは、こまつ座95年10月発行の「the座」31号で続編の執筆を明かしたが、脱稿には至らなかった。しかし、「一幕から四十六年たった/木下健一の家」と構想の一端をうかがわせるワープロ原稿の3枚が資料の中にあった。

 健一は広島カープ結成の50年に生まれ、父に続き母美津江も急死。岩手県から祖母が同居して、入団テストに合格するが、芽が出ず履物店に勤める。休日は少年野球を指導し、いまだ再開発事業が続く段原地区に住む独身の被爆2世という設定だった。

 原爆死した移動演劇「桜隊」をモチーフにした「紙屋町さくらホテル」(初演は97年)は、実在と想像の男女7人の経歴や逸話を書き留めた人物表、劇中劇を盛り込んだ全体の流れを示す大判メモなど9点を数える。

再生への言葉も

 壊滅直後の広島で地元記者らが肉声で情報を伝えたことに着目した朗読劇「少年口伝隊一九四五」(初演は2008年)。新国立劇場演劇研修所の関係者に宛て構想やプロットを書いた2点があった。原爆と翌月9月17日の枕崎台風による被害状況を各史誌から引いて、「自然の一部である人間もまた…」と再生への言葉もつづっていた。

 井上さんは山形県に生まれ、15歳からの3年余をカトリック修道会が仙台で営む児童養護施設で暮らし、同市が設けた文学館の初代館長を98年から07年まで務めた。死去翌年の11年、「吉里吉里人」をはじめとする自筆原稿など計225点約3万2千枚を妻ユリさんが市へ寄贈。ヒロシマ3部作の資料点数や内容は今回、同館の協力で確認することができた。

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貸し出し協力したい

 全自筆資料の整理に当たった赤間亜生(あき)副館長の話 井上さんの多彩な作品は、面白い仕掛けのうちに深い思いが込められている。なぜ自分たちが生かされているのかを読者や観客に問い掛け、記憶することの大切さを考えさせる。ヒロシマを巡る戯曲の資料について、広島の公的施設から貸し出し展示の求めがあれば協力したい。

(2021年1月5日朝刊掲載)

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