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ヒロシマ紡いだ作家の思い 井上ひさしの自筆資料・言葉を探る

とにかく「伝えねば」■技巧に走らず太く書く

 「記憶せよ、抗議せよ、しかして生き延びよ」。人間と核兵器を巡って、作家井上ひさし(1934~2010年)が唱えた言葉である。「父と暮せば」をはじめ広島を舞台とした戯曲3作を残した。その構想過程を浮かび上がらせる自筆資料(仙台市の仙台文学館所蔵)をたどり、多彩な仕掛けでヒロシマを見つめた作家の言葉とまなざしをあらためて探る。(特別編集委員・西本雅実)

 「父と暮せば」は、1994年9月の初演以降、国内にとどまらず欧米や中国でも上演・朗読されてきた。同名の文庫版は2020年で22刷に。原爆関連書籍では読み継がれている、数少ない作品でもある。

 「現在(いま)は昭和二十三(一九四八)年七月/ここは広島市、比治山の東側…」。帰宅した図書館員の福吉美津江が稲光におびえるや、父の竹造が押し入れから現れて全編広島弁で展開される。だが、父は3年前に原爆死していた。23歳となる美津江は「うちはしあわせになってはいけんのじゃ」と、自らの恋心を封印しようとする。

 「恋の応援団長」を自称する父は、「あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもらうために生かされとるんじゃ」と娘を諭し、孫やひ孫の誕生も願う。「おとったん、ありがとありました」。このせりふで芝居の幕は下りる。

 丸みを帯びた手書きとワープロの原稿やメモを繰ると、父役の一人芝居を当初は構想していた。妻に先立たれ、育てた娘と臨んだ見合いが「8月6日」。劇はそこから始まる。原爆で娘を失った図書館に勤める男の半生を語ろうとした。

 執筆には体験者の手記を読み込んでいた。「私には、毎日あなたの成長して行く姿がうつり…5⃣37」と手帳に記す。「日本の原爆記録」(91年刊)第5巻37ページに掲載の、広島一中1年の息子を失った母が54年に一中遺族会へ寄せた手記の一節だ。市井の人々の痛切な思いを筆写もしている。

 作家は、「父と暮せば」の執筆を研究者によるインタビューでこう語っていた(「国学解釈と鑑賞」99年別冊)。「八年前、息子を授かったとき、『この子に、父親が原爆や核兵器をどう考えていたのか、伝えたい』と思い立ちました。とにかく『伝えなければ!』と考えたのです」。そして、冒頭に引いた「記憶せよ―」を戯曲にしたのが「父と暮せば」だという。

 死者である父と娘が交わす対話劇は、核時代を続ける私たちへの警鐘であり、未来をつくる次世代への願いも込めた物語といえる。

 さらに、戦時下の移動演劇「桜隊」9人が原爆死した史実を踏まえた「紙屋町さくらホテル」を新国立劇場の開場記念公演として97年に書き下ろし、為政者の戦争責任を問う。08年には朗読劇「少年口伝隊一九四五」を発表した。

 朗読劇は、家族を失った少年3人や老人の言動から原爆の惨禍と続く枕崎台風の猛威を描き、生きるすべも説く。初演関係者へ「技巧に走らず太く書く」とファクス送信していた。それがこのせりふだろう。「のうなった子どものかわりに生きるんじゃ/そんじゃけえ、狂ってはいけん」

 作家には「原爆とは何か」と題した講演がある(「軍縮地球市民」05年創刊号・第2号)。核兵器の拡散を「狂った状況下」と捉え「記憶せよ―」と呼び掛けた。核問題の解決を通じて「私たちは人類史に貢献できます」と訴えた。愉快で巧みな表現から人間の在り方を紡いだ作家のヒロシマ3部作は、これからも演じられ読まれていくに違いない。

(2021年1月20日朝刊掲載)

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