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白系ロシア6家族 被爆 革命後 広島に定住 13人中5人死亡

■編集委員 西本雅実

 1945年8月6日に広島で白系ロシア人の6家族13人が被爆し、うち5人が秋までに亡くなっていた。日露関係史が専門の青山学院大のピョートル・ポダルコ准教授(45)や、原爆資料館と中国新聞社が調べた。ロシア革命後に日本へ亡命して広島で定住していた、知られざる被爆者の全容が64年ぶりに分かった。

 原爆死したとみられるのは、爆心地約400メートルの研屋町(現中区紙屋町)で洋服店を営んでいたパーベル・ロバノフさん家族5人のうち、広島にいた4人。上柳町(中区橋本町)に一人で住んでいたパン行商のポール・ボルゼンスキーさんは、現在の庄原市を経て10月に移った神戸で死去していた。

 ロバノフさん家族については、研屋町の警防団役員だった三村昇一さん=当時(49)=が作成した町内の「原爆犠牲者名簿」に家族名と死者数を記載。ボルゼンスキーさんは、神戸から46年に米国へ移った帝政ロシア駐日代理大使が回想録に最期の様子を表していた。

 爆心地東約1・5キロの京橋町(南区)の自宅で被爆したのがパラシューチン夫妻。自宅の下敷きとなったが助かり、神戸で貿易業を営み、妻アレクサンドラさんは1980年に77歳、夫フョードルさんは1984年に89歳で死去した。

 被爆後、神戸にあったロシア人経営の洋菓子会社に戻ったウラジミール・イリーンさんは、結婚して、1960年代に移住したオーストラリアで亡くなった。

 一方、広島女学院音楽教師だったセルゲイ・パルチカフさん家族4人は現在の東区牛田旭で被爆し、米国へ移住。長女が1986年に母校を再訪した際に家族の歩みが報じられた。

 長女カレリア・ドレイゴさん(88)は「弟も逝き、原爆に遭ったロシア人で健在なのは私だけでしょう」と、カリフォルニア州の自宅で国際電話に答えた。ウラジオストクから両親らと日本亡命を共にした、バイオリニストのコンスタンティン・バルコフスキーさんは、1980年代前半に米国サンフランシスコで死んだとも証言した。

 白系ロシア人の被爆は、市の「広島原爆戦災誌」第1巻(71年刊)が名前不詳を含め7人について触れているが、全容は不明だった。ロシア人被爆者の存在を2002年に母国で公表したポダルコ准教授の論文を基に、追跡調査した。

白系ロシア人
 ロシア革命(1917年)に伴う亡命者を表す。「白系」は、ソ連「赤軍」に対抗した白衛軍に加わり、支持した人たちを意味する。日ソが国交を樹立した25年以降、「無国籍」となる。在留白系ロシア人は兵庫や神奈川県を中心に30年に1666人をみたが、後に第三国へ移住した人も多い。戦前の日本の芸術文化やスポーツで活躍し、指導した人が少なくない。

(2009年8月2日朝刊掲載)

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