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いい日 病院引き継ぎ地域貢献

■記者 久行大輝

 爆心直下で知られる広島市中区大手町の島外科(旧島病院)の院長が1日、島一秀さん(74)=写真右=から、長男で内科医の秀行さん(38)=同左=に引き継がれた。1933(昭和8)年の開業から3代目。名前は島外科内科になった。

 原爆ドームの南東160メートル。秀行さんの祖父薫さん(77年に79歳で死去)が当時は細工町と呼ばれた地に、れんが造りの2階建ての建物で開業した。そして、あの日。玄関の柱を残して砕け散った。

 秀行さんは小学生のころ、平和学習の資料に触れ、生まれ育った地が爆心直下と知った。祖父が、被爆者を救護した様子を知ろうと回想録を読みふけった。「新病院は平和と貧しき者、窮乏したる者を世話することにささげられる」―。1948年の病院再建時の記述が心に残る。

 原爆が投下されたのは開業から12年目。48歳だった祖父の薫さんは、手術のため広島県世羅町にいて無事だった。だが、病院の看護師や患者たち約80人が亡くなる。薫さんは当日夜には広島に戻り、救護所でけが人の手当てに力を尽くした。

 薫さんが亡くなった後は父、一秀さんが32年間、院長を務めた。学童疎開で原爆の難を逃れた一秀さんは毎年、修学旅行で病院を訪れる日大二中(東京)の生徒に、戦争の悲惨さを語り続ける。

 今春、秀行さんは後を継ぐ決意を固め、呉共済病院(呉市)を退職した。「後に爆心直下となる地で生まれ、育った父が命を失わなかった。だから私がいる。祖父から連なる運命の重みをかみしめ、使命を果たしたい」

 秀行さんは、被爆の痕跡が手水鉢だけとなった実家で、地域に信頼され続けたい、と誓った。名誉院長となった一秀さんが、そばでうなずいた。

(2009年8月2日朝刊掲載)

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