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社説・コラム

ヒロシマと世界:ヒバクシャに鼓舞されて

■ケイト・デュース氏 平和・軍縮教育者(ニュージーランド)

デュース氏 プロフィル
   1953年1月、ハウェラ生まれ。1999年、ニューイングランド大学で「世界法廷プロジェクト」の歴史に関する研究で博士号を取得。「軍縮・安全保障センター」の運営に携わるとともに、20年間、カンタベリー大学で平和学を講義。軍縮・軍備管理に関する公的諮問委員、軍縮・不拡散教育に関する国連研究会のメンバー。国際平和ビューロー副会長を務め、2001年、ニュージーランド・メリット勲章受章。現在、国連事務総長軍縮関連諮問委員会のメンバー。


ヒバクシャに鼓舞されて

 1975年、当時22歳の私はニュージーランドで高校の音楽教師をしていたが、その授業計画に、ペンデレツキ作曲の「広島の犠牲者に捧(ささ)げる哀歌」が入っていた。それまで私は「ヒバクシャ」という言葉を聞いたことがなかった。しかし、彼らの体験記を読み、生徒たちに写真や被爆者が描いた絵を見せたことで、その後の私の人生は大きく変わった。被爆者とともに核兵器廃絶に人生を捧げるよう、彼らが私を鼓舞したのである。

 当時、世界には5万2000発の核兵器があった。また、米国、英国、フランス3国は、オーストラリア、タヒチ、マーシャル諸島、キリバスといった太平洋の国々で、百回をはるかに超す核実験を行った。核実験による放射性降下物は、ニュージーランドの母親の母乳からも検出された。「大国」が、深刻な健康被害や環境破壊を引き起こしながら、地球上のほとんどの生命を根絶する威力を持った兵器を、私たちの「平和な海洋」で実験していることに怒り、各地で抗議団体がつくられた。彼らは自国政府に働きかけ、1973年にはニュージーランドやオーストラリアをはじめ太平洋諸島の国々が、フランスを国際司法裁判所(世界法廷)に訴えた。その結果、それ以後の核実験は大気圏ではなく地下で行われるようになった。

 核兵器を搭載しているであろう米国の軍艦が、1976年に米豪ニュージーランド3国で結ぶ太平洋安全保障条約(ANZUS)によってニュージーランドの港に寄港した。このとき、平和団体は何百という小型ボートで「平和艦隊」を組織して抗議行動を起こし、大勢の人々が、ニュージーランドの非核兵器地帯化を求めて全国各地で街頭デモを行った。

 私のような若い母親を含む市民は、ニュージーランドがANZUS加盟国であるがために、米国とその同盟国に敵対する国々から標的として見られていることに怒りを感じていた。私たちは自国防衛のためであろうと、核兵器を他国に対して使用することに反対だった。以来10年間、私たちは核兵器や原子力発電所の危険性について人々を啓発するため、地元で組織する300の小さな平和団体を全国に設立することに尽力した。放射線被害者らヒバクシャに関するフィルム上映や展示会を開き、ほぼすべての家庭を戸別訪問。家や車や職場に非核のステッカーを張ってくれるように頼んだ。

 1984年までに、国内66%の自治体が非核宣言をし、新政権は核兵器を搭載した艦船や原子力船の寄航を禁止すると約束した。デビッド・ロンギ首相は、「核の傘」を拒否することで、ニュージーランドの国家安全保障はより強化されると考えた。「わが国の防衛には、核兵器があるよりも無いほうがはるかに安全だ」と述べた。

 政府は米国、英国、オーストラリアから大きな圧力をかけられた。しかし、ニュージーランドと米国の双方の平和運動によって大勢の一般市民が立ち上がり、それが政府の支えとなった。グリーンピースの反核旗艦船レインボー・ウォーリア号が、オークランドでフランス政府のテロ爆撃を受けた1985年、南太平洋非核兵器地帯条約が調印された。1986年に起きたチェルノブイリ原発事故など、一連のこうした出来事が「非核法」実現への道を確かなものにした。

 1986年、私の地元クライストチャーチの平和団体のメンバーである元治安判事ハロルド・エバンズ氏が、「世界法廷プロジェクト」を始めた。これが世界規模の運動となり、国連総会を通じて、核兵器の違法性について国際司法裁判所に勧告的意見を求めることになった。冷戦終結後、政治環境が改善したことに助けられもしたが、国内外の支援と機運を醸成するのに10年近くかかった。

 1994年、国際司法裁判所は初めて市民が提出した証拠品を受理した。この中には、世界中の裁判官や弁護士による1万1000人分の署名、「ヒロシマ・ナガサキ・アピール」に寄せられた1億人分の署名の一部、半世紀にわたる市民の反核運動に関する資料も含まれていた。さらに、世界中の700を超える市民団体が「世界法廷プロジェクト」を支持した。国際司法裁判所における史上最大の訴訟に44カ国と世界保健機関(WHO)が参加し、その3分の2が核兵器の違法性を主張した。

 翌年の口頭審理が始まる直前、国際司法裁判所は、「公衆の良心宣言」に寄せられた日本からの300万余を含む400万人分の署名を受理した。日本政府は、国内の強い圧力により、広島市長と長崎市長の陳述を認めた。両市長は、被爆後の廃虚の様子と人々の苦悩を伝える大きな写真を携えて、14人の裁判官と向き合った。50人を超す被爆者が、この歴史的に重要な法的挑戦をその場で見守った。マーシャル諸島から来た女性は、いまだにどれほど多くの島民ががんで命を落としているか、またどれほど多くの女性たちが「くらげ」のようにも見える赤ん坊を含め先天性障害児を産んでいるかについて説得力ある陳述を行った。

 1996年7月、国際司法裁判所は次のように歴史に残る勧告的意見を出した。「核兵器の使用もしくは威嚇は、一般的に武力紛争に適用される国際法の規則に反するものであり、とりわけ国際人道法の原則と規則に反する」。さらに裁判官は全会一致で、「徹底的かつ効果的な国際管理のもと、全面的な核軍縮へと導く交渉を締結させることを誠実に追求する義務が存在する」ことに同意した。

 「世界法廷プロジェクト」は、核のない世界を達成するための新たな取り組みの火付け役となった。同プロジェクト元実行委員会メンバーとして、私は1998年に「中堅国家構想」への参加を求められた。国際的市民団体のネットワークによるこのキャンペーンは、世界法廷プロジェクトで重要な役割を果たしたニュージーランドなど7カ国と密接な連携を取りながら活動していた。「新アジェンダ連合」(NAC)と呼ばれるこの7カ国は、国連内で効果的に活動し、2000年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議では、核保有国から核廃絶に向けての明確な約束をとりつけた。

 中堅国家構想はさらに、「核軍縮・議員ネットワーク」(「世界法廷プロジェクト」を率いた人物の一人アラン・ウェアが取りまとめ役)を設立した。この組織は今では、70カ国に500人以上のメンバーを有し、定期的にニュースレターを発行している。また、そのウェブサイトは日本語を含む11カ国語に翻訳されている。最近、米空軍の調査により、米国の核兵器が配備されているヨーロッパの「ほとんどの基地」で、米国防総省が定めた最低限の安全管理基準を満たしていないことが判明。この結果を受け、ベルギー、ドイツ、オランダ、イタリア、トルコ、英国の異なる政党の政治家たちが、自国からの米国の核兵器撤去を要求した。そして、2008年6月、110発の米国の戦術核兵器が英国から取り除かれた。これは、1950年以来初めて、英国から米国の核兵器が消えたということである。

 広島・長崎両市長は、1995年に国際司法裁判所で陳述を行ったが、翌年に勧告的意見が出たことで、核廃絶を求める決意を新たにし、平和市長会議の加盟都市を増やすための世界的運動を始めた。2006年、平和市長会議は、勧告的意見から10周年を記念し、「誠実な交渉義務推進キャンペーン」と「都市を攻撃目標にするなプロジェクト」を立ち上げた。現在、平和市長会議には、134カ国の2708都市が加盟している。このうち89都市はモスクワ、北京、ロンドン、パリなどの首都であり、世界中の首都のほぼ半分が平和市長会議のメンバーとなっている。

 世界法廷プロジェクトを支援した他の国々は、マレーシアとコスタリカが主導した核兵器を禁止する法的強制力を持った「核兵器禁止条約」を国連に提出し、決議を求めた。弁護士、科学者、軍縮専門家たちからなる連合体が、「モデル核兵器禁止条約」を起草し、1997年、国連事務総長から各国に検討のために配布された。2007年、「モデル核兵器禁止条約」は改定され、日本語にも翻訳された。この条約案と核廃絶を求めるより広い訴えは、世界各地の元首相、外務大臣、市長、軍指導者、学者、議員、科学者、政府、ノーベル賞受賞者、NGO、一般市民など、政界全体やあらゆる立場の人々からますます強い支持を得ている。

 昨年の「国連デー」に、潘基文(バン・キフン)国連事務総長が、核軍縮に向け5項目の提案をした。潘氏は、核保有国に対し「相互に補強しあう、個別の条約の枠組み合意」を追求することにより、NPTに定められた義務を遂行するよう求めた。さらに、次のようにも述べた。「あるいは、長年国連で提案されてきたように、確固たる検証システムに裏打ちされた核兵器禁止条約について交渉することも考慮すべきだ」と。

 現在世界に存在する核兵器の数は、1975年当時と比べ半減した。オバマ米大統領も核兵器廃絶を目指している。こうした状況を考えるとき、すべての国が共に協力して、核兵器を即時発射態勢からはずし、核弾頭数をただちに大幅に削減し、ミサイル防衛システムを中止し、包括的核実験禁止条約に署名・批准し、兵器用核分裂性物質生産禁止条約(カットオフ条約)と宇宙条約の交渉をすすめるべき時機が、今まさに来ているといえる。私たちすべてが自国の政治指導者たちに、核兵器禁止条約の交渉を始めるよう圧力をかけるのに、これほど希望を持てたことはかつてない。そうなれば、世界各地のヒバクシャが被った苦痛や苦悩は無駄ではなくなり、核兵器のない世界を求める私たちの夢と願いが現実のものとなる。

(2009年2月23日朝刊掲載)

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