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社説・コラム

故丹下氏の平和公園設計 大谷幸夫さんに聞く 慰霊碑は「慚愧」表現

■記者 水川恭輔

 広島市中区の平和記念公園は世界的建築家、丹下健三氏(1913~2005年)が60年前に設計した。その際の書簡や設計風景の写真が18日から8月9日まで、原爆資料館で初公開される。建築家の大谷幸夫東京大名誉教授(85)=東京都=は当時、同大助教授だった丹下氏を大学院生として手伝った。被爆地の復興を象徴する公園設計に込められた思いを聞いた。

  ―被爆翌年の秋、国から委託された復興計画調査で丹下氏と広島を訪れましたね。
 空襲で焼けたほかの街と違い、都心に人の姿がほとんどなかった。一面がれきで被爆前の街を知る手掛かりすらない。東京なら仮設の家を造れば人が戻るが、原爆で無残に壊れた広島は復興の「旗印」も必要と感じた。

  ―49年の公園設計案ができた経緯は。
 広島デルタは東西に走る中国山地と、北から南に流れる太田川水系が形づくる。市民になじみやすい東西と南北の「軸線」で街にドラマを生みたかった。

 東西は市民活動の中心となる平和大通り。南北は苦心した末、丹下先生が何枚もの絵を描いた構想のうち、偶然にも「ピース」という銘柄のたばこの箱の裏に描いたアイデアに固まった。それが原爆ドーム、原爆慰霊碑、原爆資料館と一直線に並ぶ公園の原型だ。ドームを原爆体験を受け継ぐ象徴とし、復興への「旗印」とする見事な案だった。

  ―ご自身の担当は。
 植樹と資料館の実施設計。多くの市民がもだえながら死んだ場。夫の仕事の関係で広島に住み、爆心地から約2キロで被爆した私の姉からも悲惨さを聞いていた。死者を忘れないための墓標として多くの木を整然と植えた。

 資料館本館は大事なものを湿気やネズミから守る日本古来の高床式倉庫を基にした。建物を持ち上げる柱は、平和大通りから祈りの空間へのゲートの役目も果たす。大通りからドームも望める。

  ―丹下氏の書簡からは、原爆慰霊碑の設計者として、日系米国人の彫刻家の故イサム・ノグチ氏を推す記述が散見されます。
 先生は慰霊碑は芸術家の領域と考え、ノグチ氏に頼んだ。ノグチ氏はむき出しの内臓のような形の碑で無残な死を表そうとしたが、「原爆を落とした国の人間」との理由で関係者に反対された。代わりに先生が、死没者名簿を入れる石室をそっと覆う形の碑をデザインした。生き残った者は何もできなかったという「慚愧(ざんき)」の念を表現している。

  ―碑前に段差を設けたのは、ノグチ氏から丹下氏への提案だったようですね。
 碑は平面にあるより、視線の上にある方が力を伴って目に迫る。祈りの空間の中心となる碑を「舞台」、周りの広場を「座席」とイメージし、設計途中で段差を加えた。ノグチ氏が先生に提案したことも覚えている。

  ―国の予算確保の苦労も記されています。
 先生は国の知り合いを通じ必死に予算を工面した。戦時中、軍部に無抵抗でいた後ろめたさも復興への思いを駆り立てたと思う。

  ―今の広島の街づくりについて提言は。
 建築にはそこで生活したり、働いたりした人の記憶が詰まっている。残すべきものをきちんと議論し、残してほしい。

故丹下健三氏の書簡
 平和記念公園の設計者に選ばれた丹下氏が1949年から約2年間、当時の故浜井信三市長らにあてた23通。元市職員が89年、丹下氏の死後の公開を条件に市公文書館に寄贈した。平和大橋をデザインした彫刻家故イサム・ノグチ氏との知られざるやりとり、園内の施設を「平和運動の基地」と表現し、国に建設費補助の増額を掛け合ったエピソードなどを記す。

(2009年7月17日朝刊掲載)

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