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社説・コラム

核実験から半世紀 仏は今

■ヒロシマ平和メディアセンター事務局長 難波健治

 フランスが最初の核実験をし、4番目の核保有国になってから今年で半世紀。節目の年にやっと、核実験被害者補償法が公布され、政府による被曝(ひばく)者への補償が動きだそうとしている。パリ近郊に住む平和活動家、美帆シボさん(60)がこのほど広島を訪れたのを機に、フランスの平和運動の現状を聞いた。また、核実験被害者の権利回復運動を長年ウオッチしてきた研究者の真下俊樹さん(56)に、フランスの核政策や補償法の課題についてインタビューした。

平和運動に連帯感

フランス在住の平和活動家 美帆(みほ)シボさん

 私がフランスで原爆被害を伝え始めた1982年ごろ、この国で「平和」という言葉は市民権を持っていなかった。パシフィズム(平和主義)やパシフィスト(平和主義者)は、戦争に協力せず、レジスタンスにも参加せず、ただ戦争を避けるだけの人だととらえられていた。

 「核兵器に反対」と私が言うと、「あなたは化学兵器や生物兵器には賛成しますか?」と質問された。フランスで反核運動は平和運動の一部。全ての兵器に反対だと意思表示しないといけない。

 また被爆者や日本人が原爆被害を語り、核兵器に反対してほしいと訴えると、こんな意見が出る。「ではなぜイラク戦争に加担したのか」。フランス政府に核兵器廃絶を要請しようとすれば、「日本は米国の核の傘の下に入っている。それを排除せず、どうして私たちに廃絶を要求するのか」と反論される。

 フランスは核兵器への信仰が強い国だ。

街の通りの名に

 私が住んでいるマラコフ市に「イレーヌ・エ・フレデリック・ジョリオ・キュリー」という長い名前の通りがある。1903年、夫とともにノーベル賞を受けたキュリー夫人の娘がイレーヌ。優れた科学者で、やはり科学者のフレデリック・ジョリオと結婚し、2人は1935年にノーベル賞をもらった。

 戦後、フレデリック・ジョリオ・キュリーは原子力庁長官を命じられた。一方で1949年、サルトルやピカソら世界的な知識人、芸術家とともに核兵器反対運動を起こし、世界平和評議会会長も務めた。1950年のストックホルム・アピールでも核兵器反対を訴え、原子力庁長官の座を追われた。こうして彼は、平和に貢献したとして通りに名前が付いた。

 フランス原子力庁は1954年、核爆発委員会をつくって核兵器開発を進めていく。1960年に4番目の核保有国になった。核兵器を持つことで米国からもソ連からも独立した路線を歩んだ。

 左派勢力は核兵器に反対した。ところが1977年と78年、共産党と社会党が核抑止論に転換した。それは世論調査の結果、社共連合が政権を取る可能性が高いと分かり、連合政権誕生を優先したからだった。それほど国民の間には、根強い核兵器信仰があった。

 影響は平和運動にも及んだ。私が活動を始めた1982年には、全ての主要政党が核抑止論に立っていた。平和運動も分裂し、核実験にノーコメントの団体もあった。しかし今日では、全ての平和団体が協力して核兵器廃絶運動をしている。

被害者の会結成

 ずっと核兵器廃絶運動をやっているミシェル・ベルジュという人がいる。徴兵されてサハラ砂漠の核実験に参加し、片耳が聞こえなくなった。

 彼は元軍医の協力で多数の被害者を探し出し、病状や死因を調べた。がんや不妊症になる率や異常児を出産する割合が、英国や米国の核実験被害者とほぼ同じだった。フランスには核実験被害者に対する補償が全くなく、軍人や軍属、雇われた民間人、遺族で2001年に被害者の会をつくった。ポリネシアやアルジェリアにも被害者の会ができた。

 核実験で病気になった人たちは、裁判を起こして次々と勝訴し、政府はようやく補償法案を今年、公布した。

 しかし、この補償法には欠陥が多い。ポリネシアとアルジェリアの住民の多くは核実験被害者と認められないだろう。日本における被爆者対策の情報がもっと早くから届き、情報交換していれば、とよく考える。

美帆シボ氏
 1949年静岡県生まれ。フランス平和市長会議顧問。1975年からフランスで暮らし、フランス人の夫とともに平和運動に取り組む。1993年、アニメ「つるにのって」を制作。英語版とフランス語版も作った。


被曝者補償 道半ば

神戸市外語大・国学院大講師 真下俊樹(ましも・としき)さん

 フランスに核実験の被害者がいることはあまり知られてこなかった。被害の事実が隠されてきたうえに、核兵器を持つことをよしとする宣伝が徹底して行われたからだ。

 フランスは1960年から1996年までの37年間、植民地だったアルジェリアのサハラ砂漠と仏領ポリネシアで計210回の核実験を行った。核軍備の規模の割に、実験数は多い。

 1958年に大統領に就任したドゴールは、北大西洋条約機構(NATO)からフランス軍を引き揚げ、それまでの対米追従外交を転換した。ソ連による侵略を脅威としながら米国からも距離を置くには核兵器を持つことが不可欠とし、開発を急いだ。

 計13回の地下核爆発を実施したサハラ砂漠では、放射性物質が坑道を突き抜けて地表に噴き出す事故が4回も起きている。1962年5月には約2千人が被曝した。その場に居合わせた大臣の一人は白血病で亡くなった。

 フランス政府は核実験に関する情報を「国防機密」としてほとんど公表せず、個人の被曝記録も本人や家族にさえ開示しなかった。1996年の核実験終結宣言後、健康・環境への影響に関する公式報告をいくつか公表した。だが、いずれも全体として環境や健康への影響は皆無とする内容だ。

 フランスの核実験被害者は大きく三つのグループに分かれる。核実験に動員された軍人、科学者・技術者ら本国人、核実験場となったアルジェリアの人たち、さらにポリネシアの現地住民である。

広島会議に集合

 1986年のチェルノブイリ原発事故をきっかけに、こうした人たちが不安を訴え、真実を求める声を上げ始めた。だが、被害者が団結するまでに10年以上かかった。

 2001年6月、有志10人が集まり、「核実験退役軍人協会(AVEN)」を結成した。翌月、ポリネシアの被害者団体「モルロアと私たち協会」が発足した。本国とポリネシアの被害者が緊密に提携したのに対し、アルジェリアの動きは遅れた。

 溝を埋めたのが2002年8月のフランス核実験被害者広島会議だった。AVEN代表2人、モルロア協会代表3人のほかアルジェリアからも代表1人が出席し、3者が初めて一堂に会した。翌2003年に「アルジェリア・サハラ砂漠仏核実験被害者協会」が設立された。

対象者はわずか

 初の核実験から50年、やっと核実験被害者補償法ができた。それまでは「フランスに核実験被害はない」としてきた政府が被害を認め、補償もするという。しかし、法の内容は被害者の権利回復からはほど遠い。

 補償の対象者が極めて限定されている。国防相は法案を提出する際に、核実験に関わった人たちは合わせて15万人近いことに言及する一方、法の対象となり得るのは「数十から数百人」とも述べている。

 日本が果たす役割は大きい。長年の運動で獲得した被爆者への支援策や制度は、海外で参考になる。世界のヒバクシャはその情報を求めている。翻訳さえあれば、インターネットで情報はしっかり共有され、運動はつながっていく。

真下俊樹氏
 1954年京都府生まれ。神戸市外語大、国学院大講師。フランス核政策、エネルギー政策を調査研究。フランスの核実験被害者のほか、欧州各国の環境問題活動家、緑の党と交流がある。

フランスの核実験
 植民地としていたアルジェリアのサハラ砂漠で1960年に始め、1962年の同国の独立後も続けた。1966年までに大気圏4回、地下13回の実験を実施。1966~96年は南太平洋・仏領ポリネシアのムルロア、ファンガタウファ両環礁に実験場を移し、大気圏46回と地下147回の実験を繰り返した。


≪フランス核実験被害者補償法の骨子≫

・核実験と被曝者の疾患との間に因果関係が推定される場合、補償金を一括払いで支給する(リスクが無視できる場合は除く)
・デクレ(政令)で定めた時期と地域にいたことを申請者が証明する
・補償対象は、白血病(慢性リンパ性白血病は除く)や各種のがんなど18疾患とする
・支給を判定する補償委員会は国防省・保健省が任命する7人と委員長で構成
・核実験影響追跡諮問委員会を年2回招集する

(2010年12月6日朝刊掲載)

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