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社説・コラム

『私の師』 国連訓練調査研究所(ユニタール)特別顧問 ナスリーン・アジミさん

偏見のない広い心 糧に

 私の人生に最も深い影響を与えたのは、父のホセイン・アジミ(2001年に77歳で死去)だ。年を重ねるに連れて、父の偉大さを感じている。

 国連訓練調査研究所(ユニタール)という国際的な仕事に就いたのも、ここ広島で「緑の遺産ヒロシマ」という市民グループを設立し、被爆樹木の種や苗を世界へ送る活動をしているのも、父から受けた影響が大きい。

 私はイランで生まれた。父の仕事の関係で、パキスタンやトルコで暮らしたこともある。人生の転機は17歳の時、スイスに移住したことだ。それができたのは、「外国で暮らし、価値観を広げてほしい」という父の思いがあったからだ。

 父は、イラン北西部のアルダビールで生まれた。カスピ海近くの緑豊かな街だ。11歳の時に父親を亡くし、高校を卒業後、森林を管理する政府の仕事に従事していた。外科医師になることを夢見たが、有能で貧しい人たちに唯一開かれていた陸軍士官学校へ奨学金を得て進み、将校になった。

 親を早く亡くして苦労したせいか、相手の気持ちがよく分かった。努力家で、不公平なことが大嫌い。たしなんでいたペルシャ詩から、偏見のない広い心を学んだのだろう。

 私は、イスラム教の家庭に生まれたが、10~16歳の時、テヘランにあるユダヤ教の学校に通った。クラスメートにはユダヤ教徒だけではなく、イスラム教徒、ゾロアスター教徒、キリスト教徒たちもいた。「人々が交流するのに、宗教や人種、性別は、何の障壁にもならない」。そんな父の考えを、自然と学ぶことができた。

 両親は、イラン革命(1979年)の5年ほど後に米国へ移住した。

 私がユニタールのニューヨーク事務所に勤務していたころ、ユニタール広島事務所を開設するための仕事に就くことを決断した。ただ、ニューヨークでの仕事をやめ、両親が住む米国を離れるのは、期待とともに不安もあった。

 そんな時、カリフォルニア州で暮らしていた父が、長文のファクスを送ってきた。ペルシャ語の詩で埋め尽くされていた。

 「心配しないで。広い視野を持ち、あなたの思った通りに進みなさい」

 とても勇気づけられた。その1年ほど後に父は病気で亡くなった。広島を訪れてもらう機会がなかったのが、本当に残念だ。父はきっと、核兵器廃絶のためのサポーターになってくれていただろう。

 父のように自然や文化、人を尊重できる人が増えれば、憎しみは生まれないし、戦争は起きない。

 父の写真は、自宅に飾っている。広島事務所長をやめた後も広島に残り、平和のための活動を続けている私のことを、誇りに思ってくれているだろうし、ずっと見守ってくれていると信じている。(聞き手は増田咲子)

ナスリーン・アジミ
 1959年イラン生まれ。17歳の時にスイスへ移住。86年ジュネーブの国際問題研究所で国際関係学修士号、98年にはジュネーブ大建築研究所で修士号を取得。88年からジュネーブのユニタール本部に勤務。同ニューヨーク事務所長などを歴任し、2003年初代の広島事務所長に就任。09年退任。11年から被爆樹木の種や苗を世界各地に送る活動に取り組む。ニューヨーク・タイムズなど米紙に被爆地広島の平和への取り組みやフクシマの問題について寄稿。広島市中区在住。54歳。

(2013年7月1日朝刊掲載)

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