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社説・コラム

『やまぐち考』 光海軍工廠 防長本社代表 山城滋

戦争を次世代に伝える

 8月14日午後0時20分、光市内のサイレンが一斉に鳴る。終戦前日の昼すぎ、光海軍工廠(こうしょう)が米軍機のじゅうたん爆撃で破壊され尽くして68年がたつ。

 東洋一の軍需工場を目指し「光」と名付けた工廠は1940年に開設された。呉工廠と役割分担して素材から兵器まで一貫生産、後に人間魚雷回天の基地もできた。工廠名にちなんで生まれたのが光市である。

 戦況の悪化に伴い、作業員3万人余の確保が難しくなる。旧制中学校や高等女学校、国民学校高等科の生徒6500人が駆り出された。動員学徒と呼ばれた10代の男女である。

 私の母(84)もその一人だった。工廠に近い隧道(ずいどう)内の分散工場で、砲弾を旋盤で作った。不慣れな作業で夜勤もあった。「歌いながら眠気をこらえたが、おしゃかを作っては夜、池に捨てよった」

 空襲の日、午前中に警報が出て多くの人が隧道に逃げ込んだ。警報が解除され、避難した人が持ち場に戻ったころ、B29の大編隊が襲ってきた。

遺体をかき分け

 名前が分かった犠牲者だけで738人。133人の学徒も含む。空襲の後、足の踏み場がないほど転がされていた遺体をかき分け、母たちは隧道から出た。

 今、工廠跡地の大半は武田薬品工業と新日鉄住金の工場に、22メートル道路は国道188号になった。武田工場内に残った旧本部庁舎は今春までに取り壊された。

 光市の礎であると同時に、軍のアジア侵略を支えた拠点であり、空襲による悲劇を生んだ光工廠。当時の面影が失われる中、その歴史を次世代にどう伝えればいいのだろうか。

 浅江中の1年生が今年5月、平和学習をした。初日は戦争体験などに耳を傾けた。2日目は今も残る工廠の外壁と関係展示のある市文化センターを訪れた。

 外壁には弾痕のような穴もある。手で触って当時の惨状を思い描き、「怖くなった」との感想を抱いた生徒もいた。

 光井小は今月1日、平和を考える集会を開いた。前身の国民学校高等科の男子6人が犠牲になった。12歳余りで人生の花を咲かせずに散った友を慰霊し、恒久平和を願う「悠久の碑」を級友たちが建てている。

 級友だった佐伯亮二さん(80)は6年生に語りかけた。わら草履やもんぺ姿も多い卒業写真を見せ、当時の暮らしぶりや動員学徒の手記を紹介した。

 「平和であることの幸せは分かってもらえたが、私らは日本が勝つと信じ込んでいた。そんな戦争の実態をどこまで理解できただろうか」との思いは残った。

体系的な継承を

 岩国、徳山空襲でも同様だが、体験者は話せるぎりぎりの年齢になった。証言のビデオ収録など体系的な体験継承の取り組みはもう今しかできない。

 戦跡や遺品の保存・活用も進めたい。広島市の平和記念公園の西側に光工廠の廃材で架けられた本川橋など素材は市内外にまだ残っている。

 隧道跡は新日鉄住金の島田門北東の山裾にある。危険防止のためか、ふたをされ夏草が覆っている。この暗がりの中に身を置けば、68年前がより真に迫ってくるのではなかろうか。

(2013年8月14日朝刊掲載)

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