×

連載・特集

ヒロシマの記録-遺影は語る 元柳町

川面を埋めた 幾千の命と涙
※2000年5月8日付け特集などから


■記者 西本雅実、野島正徳、藤村潤平

 広島市は、西中国山地の冠山をいただく広島県佐伯郡吉和村を源流とする太田川水系に開け、今に続く。原爆投下時は7つの川がデルタをつくり、彩っていた。西から山手川と福島川(現在の太田川放水路)、天満川、本川、元安川、京橋川、猿猴川。広島市が「水の都」と呼ばれたゆえんだ。

 本川は、7つの川の本流を意味する。東側の元安川とともに、デルタの中心街だった旧中島地区の動脈を成した。船を使い、中山間地域からは米や材木、瀬戸内の島しょ部からは野菜や果物が運ばれ、帰りは乾物や肥料を積んだ。

 広島市中区に住む上田良三さん(83)は、その本川を見て育った。「ポンポンと音をたて白い煙を煙突から吹き出す番船が着き、荷馬車や大八車が近くを通る旧山陽道から集まる。荷の積み降ろしも便利だったので問屋街として発展したんです」。一帯を「元柳町」といい、現在は平和記念公園の西側一角を成す。

 川土手筋を足早に歩けば数分の街区ながら、繊維関係の問屋をはじめ旅館、運送店、医院などが立ち並んだ。川は水泳の場でもあり、子どもたちは夏になると雁木(がんぎ)で甲羅干しをし、真っ黒になるまで泳いだ。それが1945年8月6日に一変した。

 元柳町47番地に住んでいた橋本(現姓倉本)弘子さん(67)はたまたま、父や祖父に連れられ宇品沖にいた。ろこぎの釣り舟で元安川を上り翌日、本川に入った。「川面を埋め、流れる数え切れない死体に目を伏せました」。町の跡で見つけた近所の主婦を運んだ父は、亡くなるまであの時のことはほとんど話さなかった。あの日以降、元柳町にいた人に会ったこともないという。

 父の代から繊維雑貨卸を営んでいた上田さんは、ゆかりの人たちの消息さえ断ち切られた中、連絡がつく旧住民と町名の1文字を採った「柳生会」をつくる。死没者を弔い、ありし日の街並みを伝えるモニュメントの公園内設置を広島市に昨年要請した。今回の「遺影は語る」は会に集う人たちが記憶する、人づてに聞いた消息や、森永製菓が残していた殉職社員の資料を基に遺族を捜した。

 その結果、28世帯の居住と5つの事業所の所在を確認し、45年末までに亡くなった住民や勤務者、訪問者83人の被爆状況が分かった。うち63人は遺影があった。残された子どものため再婚した人たちから元の伴りょの写真や、成人になって初めて知った生みの母の写真も提供された。1人ずつの遺影に込められた思い、原爆のつめ跡は深い。

元柳町の死没者名簿1
元柳町の死没者名簿2

年別アーカイブ