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連載・特集

連載「放影研60年」関連特集 被爆者調査 注目と批判と

■記者 森田裕美、石川昌義

 放射線影響研究所(放影研、広島市南区)が間もなく開設60年を迎える。前身の米国原爆傷害調査委員会(ABCC)から蓄積した被爆者調査の成果は世界に注目され、放射線の防護基準にも生かされている。一方で、原爆を投下した米国が設立し、現在も日米共同で運営する研究所に、違和感を持つ被爆者も少なくない。研究対象である被爆者が高齢化し、財政難のあおりを受けて運営の見通しも不透明だ。歩みと現状をまとめた。

 広島市を見下ろす比治山に、かまぼこ形の独特な建造物が並ぶ。現在約300人の職員が勤める放影研。「お嫌いな検査があったら遠慮なく言ってくださいね」。健診に来た被爆者に、職員が検査内容を丁寧に説明し、応対していた。

 半世紀にわたり、協力を得た被爆者らの追跡調査を続ける。調査を通じ放射線被曝(ひばく)線量が高いほど、白血病も含めたがんの発症率や死亡率が高いことを突き止め、胎内被爆者については原爆小頭症の増加を確認した。

 最近では生活習慣病に着目し、ヒトゲノム研究にも着手。心血管障害や糖尿病、B・C型肝炎などがん以外の疾病と被曝との関連性を探る。2001年5月に始めた被爆2世の健康影響調査も28日、結果を公表する。

 前身のABCCは、米原子力委員会の資金で、米学士院と学術会議によって1947年開設された。広島赤十字病院の一部を借り血液学調査からのスタート。1975年、日米共同運営方式の財団法人に衣替えした。「調査だけして治療しない」などと批判はあったが、現在では被爆者や行政関係者を集めた地元連絡協議会を開き、「平和目的」「純粋な学術研究」への理解も求めている。

 研究維持への課題も多い。研究対象の被爆者のうち、生存者はほぼ半数に。老朽化した施設の移転問題、若手研究者の確保、財政難…。将来像を探るため、日米の専門家による上級委員会で存続へ議論が続いている。

 上級委メンバー田原栄一広島がんセミナー理事長は「低線量被曝や2世への影響など、被爆者らが抱える不安を解消するためのさらなる研究が必要。被曝による疾病の早期診断、治療に役立てるシステムづくりが求められている」と指摘する。


最後の一人まで見届ける義務 理事長を16年 名誉顧問の重松さん

 放影研の名誉顧問を務める重松逸造さん(89)=東京都在住=は1981年から16年間、理事長を務めた。「60年で幕切れではなく、研究はこれから」。後輩らに期待を寄せている。

 ABCC時代を含め、トップ在職期間は歴代最長。被爆者の疫学調査を基に研究を指揮し、「核兵器廃絶をただ叫ぶのでなく、被爆地の研究成果が世界中に注目されることで、核兵器の恐ろしさを発信することになる」と、放射線被曝の実態を広く伝えてきた。

 在任中、一番の苦労は優秀な研究者の確保。疫学者としてABCCに出入りしていた時代、「米国人研究者にはベトナム戦争の徴兵を拒否した平和的で優秀な人材が集まっていた」と明かす。

 理事長時代、強く印象に残る出来事があった。不幸にも放影研の成果を世界に知らしめることになった1986年のチェルノブイリ原発事故。旧ソ連は翌年、調査団を放影研に派遣し、教えを請うた。

 だが、10日間にわたって放出された放射性物質の間接的吸入などによって線量推定が複雑な上、人々が離れて暮らす環境の違いから、被爆地の調査が当てはめられるわけではなかった。何より住民に調査への理解を得る難しさを痛感した。「広島は、被爆者の協力が得られた点が大きかった」と振り返る。

 戦後の混乱期に始まった調査データは、被爆の影響を低く見積もっている、との指摘がある。比較対象の非被爆者に残留放射能を浴びた可能性のある人が含まれ、ABCCの研究対象は1950年の国勢調査が基になり、被爆5年以内に死亡した人は対象外。「抵抗力のある被爆者が生き残った」と考えることもできる。

 「指摘は当然。そうした疑問を一つ一つつぶすため研究を続けてきた。今後もその努力が必要で、せめて最後の被爆者まで見届けるべきだ。そこまで尽くしてようやく世界は納得してくれる」


主な研究の内容

12万人を追跡調査/被曝線量推定

■寿命調査と成人健康調査

 被爆による健康への影響を解明する上で重要な基礎となる。1950年の国勢調査で把握した被爆者約9万4000人と非被爆者約2万6000人(入市被爆者を含む)の計約12万人を対象に、死因を追跡するのが寿命調査。1958年に始まった成人健康調査は、約12万人から約2万3000人を抽出し、2年に一度のペースで問診や健康診断を続けている。

 各人の被爆場所から推定した被曝線量をベースに、疾病の罹患(りかん)率との関係を分析した結果、白血病や胃がん、肺がんなどの発症に放射線の影響がみられた。B・C型肝炎や糖尿病などとの因果関係は解明されていない。

■胎内被爆

 母親の胎内で被爆した約3600人(非被爆者を含む)が対象。60年代までの研究で、原爆小頭症と精神遅滞の増加を確認した。厚生省(当時)は1967年、「近距離早期胎内被爆症候群」の病名で、患者の症状が放射線に起因していることを認め、公的援護の対象としている。

■被爆二世

 1948年から6年間、広島、長崎両市の新生児約7万7000人(非被爆者を含む)の奇形、死産、出産直後の死亡などを調査して以来、現在も研究が続く。1946年から1984年に誕生した被爆者の子ども8万8000人を追跡調査。染色体異常やタンパク質の変化についての調査もあったが、現段階では、親が受けた放射線が被爆2世の健康に与える影響は立証されていない。

 被爆2世の多くが壮年期を迎え、糖尿病や高血圧などの生活習慣病の発症と放射線との因果関係を調べる取り組みを2001年から始めた。

 飲酒・喫煙歴や運動習慣の有無などを問うアンケート(郵便調査)を経て、昨年9月までに約1万2000人が健康診断を受けた。28日に分析結果を公表する。

■原爆放射線量推定

 原爆が放出した放射線の総量と被爆者がいた地点を基に、一人一人の被曝線量を推定する。1965年に最初の推定方式「T65D」を策定。DS86、DS02に修正されて現在に至る。

 爆心地周辺で採取された金属類や瓦などの被爆試料から測定した放射線量を基に計算式をまとめた。寿命調査の対象者から聞き取った被爆状況から、屋内や物陰で被爆した場合の「遮へい」の影響も考慮している。国の原爆症認定基準にも活用されている。


将来像と研究の展望 大久保理事長に聞く

 岐路に立つ放影研の将来像や研究の展望について大久保利晃理事長に聞いた。

 ―この60年をどうとらえていますか。
 大変な犠牲の上に積み上げられた歴史は重い。占領下では米軍部の介入もあり、ABCCが軍事目的に傾いたと考えざるを得ない時代もあった。被爆者の反発や悪印象を定着させたのも事実だ。だが、多くの被爆者らの協力や、先輩研究者、職員の懸命な取り組みで、他の介入を許さない研究ができた。その成果は放射線から人類を保護する目的に生かされている。

 ―被爆者が高齢化し、存在意義も問われています。
 若年での被爆者が、がん年齢にさしかかっており、今後20~30年は研究を継続する必要がある。放影研には半世紀にわたる血液や尿の凍結サンプルが57万7006件、がん組織など病理組織が93万2250件保存されている。被爆者健診など直接的な調査は終わっても、サンプルを使って未来の人類のための研究はできる。

 ―施設の移転問題は凍結されたままです。
 広島市の長期計画にも関係してくる。原爆医療関連施設でつくる懇話会は、連携のためにも移転を求める中間報告をまとめた。立地などのほか、建物の老朽化の問題もある。日米の負担割合など外交も絡むが、積み上げてきた英知を最大限活用できる道を探りたい。

 ―若い研究者の確保も課題ですね。
 将来像が見えないと、若い人に長く勤めてもらえない。外部機関との協力など人事交流や共同研究を進め、例えば博士号を取った若手研究者に数年、勉強に来てもらうなど養成機能も備えた施設にしてもいい。

 ―日米共同運営を続ける意味はありますか。
 反米意識が渦巻く中に発足し、複雑な市民感情の中で被爆者や日米双方の研究者の真摯(しんし)な取り組みで継続してきた機関はほかにない。被爆者の苦労や平和運動の歴史を持つ被爆地の体験と放影研の研究が無関係になってはならない。米国にヒロシマを忘れさせない意味もある。過去の暗い歴史から逃げずに正面から未来に向かいたい。

おおくぼ・としてる
 1939年東京生まれ。慶応大医学部卒。自治医大助教授、産業医大教授、同学長などを経て、2005年4月放影研副理事長に就任し、同年7月から現職。専門は公衆衛生学・疫学。


ABCC/放影研の足跡

1945年 8月 広島・長崎に原爆投下
       9月 日米合同調査団が発足
1946年11月 米トルーマン大統領が米学士院と学術会議に被爆者の長期的調査を指令。10日
          後に4人の専門家が広島入り
1947年 3月 広島赤十字病院内に原爆傷害調査委員会(ABCC)を開設
1948年 1月 国立予防衛生研究所(予研)広島支所がABCC内の研究に加わる
1950年10月 国勢調査の付帯調査として全国被爆生存者調査を実施。全国で約29万人を把握
      11月 広島ABCCが比治山公園に移転開始
1952年 4月 日本が独立
1955年11月 米原子力委員会(AEC、現エネルギー省)と学士院、学術会議でつくるフランシス
          委員会が研究計画の大幅見直しを提案
1958年 7月 成人健康調査を開始
       8月 ABCCと予研が寿命調査に関する同意書を交わし、日米共同研究体制の基盤が
          確立
1975年 4月 ABCCと予研を再編改組し、日米共同運営方式の財団法人放射線影響研究所が
          発足
1978年12月 被爆者の解剖中止
1986年 3月 原爆放射線量の暫定値「T65D」を修正し、線量計算システム「DS86」を決定
1990年10月 世界保健機関(WHO)のチェルノブイリ事故科学諮問委員会会議を開催
1995年10月 WHOの「緊急被曝(ひばく)医療支援ネットワーク」(REMPAN)会議を開催
1996年 6月 ブルーリボン委員会が、放影研の将来のあり方をめぐり、疫学調査を最優先テーマ
          とするよう勧告
1999年10月 茨城県東海村臨界事故で周辺住民の健康調査に参加
2001年 5月 被爆二世の健康調査が始まる
2003年 3月 「DS86」に代わる新しい線量計算方式「DS02」を最終承認
2005年11月 将来構想を決める第三者機関「新ブルーリボン委員会」の06年設置で、日米両政
          府が合意
2006年 7月 広島大と包括的協力協定を締結
      10月 放射線医科学総合研究所、広島大、長崎大と共通データベースの構築で合意し
          たと発表▽被爆医療関連施設懇話会が、広島市中心部への移転を柱とする地元
          要望をまとめる
     12月 9月末までに実施した被爆二世調査の受診者1万1951人と発表▽今後20年の
          将来構想を議論する第三者機関「上級委員会」が開かれる

(2007年2月26日朝刊掲載)

 

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