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連載・特集

「放影研60年」 第1部 歴史を超えて <2> 医の模索

■記者 森田裕美

生き残りかけ地域連携

 古いかまぼこ形の建物の中に、厳重に管理された巨大な冷蔵庫や標本保存室がひしめく。マイナス180度の液体窒素で凍結したリンパ球、マイナス80度で保存した血清…。被爆者の承諾を得て収集された生物資料の数々だ。

 放射線影響研究所(放影研、広島市南区)が60年間で蓄積したデータは、血液や尿のサンプル57万7006件、がんなどの病理組織が93万2250件。被爆者の死後も取り出して研究が可能な状態に保存されている。

 放影研の前身となる原爆傷害調査委員会(ABCC)時代、被験者である被爆者から厳しい批判を浴びた。「データを取るだけで、治療はしない」。改組後の1975年以降は、2年に一度実施する成人健康調査の結果を渡しているが、十分とは言い難い。

 「本当に被爆者のための検査と言うなら、もうひと声アドバイスがあってもいい」。放影研の検査結果を持って訪れる被爆者と日々接する安佐南区の広島共立病院の青木克明院長(58)は言う。

 ある70歳代の女性患者の場合、放影研の検査がきっかけで腎臓がんが分かり、手術した。爆心地から約1キロの近距離被爆。被爆者援護法に基づく手当を申請すれば認められるのだが、そうした助言はなく、機会を逃すところだった。

 医療国際協力など学術的分野では病院や大学などとの連携に動いてきた放影研。だが、被爆者の社会的サポートについては「健康上のアドバイスや医療機関の紹介はしている」と歯切れが悪い。

 被爆者の高齢化も、放影研の将来像に影を落とす。1950年の国勢調査から抽出した調査対象約12万人のうち、1998年の段階ですでに半数が亡くなった。

 犠牲になった被爆者から得た貴重なデータをどのように未来に役立てるのか―。昨年5月、同じ悩みを抱える広島の研究機関や行政がネットワークを結んだ。「広島被爆医療関連施設懇話会」。広島赤十字・原爆病院や広島大原爆放射線医科学研究所(原医研)も加わる。

 「援護という視点に立てば、それぞれ役割や得意分野を持つ広島の医療施設の連携は欠かせない」。委員長に就いた広島県医師会の碓井静照会長(69)は、ヒロシマの「医」の生き残りをかける。

 その懇話会が打ち出すのが、市中心部に関連機関が共同運営する「広島放射線医学研究医療センター」(仮称)構想。後障害研究の分野で中心的役割を果たす放影研が加わり、研究と臨床の拠点を目指す。昨秋まとめた中間報告に盛り込んだ。

 いずれも財政難を抱え、構想の先行きは不透明だ。だが、入市被爆し、被爆死した人の病理解剖にも携わった元原医研所長の横路謙次郎さん(80)は言う。「研究成果を臨床に生かさないと意味がない。いま被爆体験は薄れ、世界には核危機も迫っている。被爆地の英知が合わされば被爆者を救い、原爆被害を世界に発することにもつながるはずだ」。後輩たちに思いを託す。

(2007年2月27日朝刊掲載)

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