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連載・特集

「放影研60年」 第1部 歴史を超えて <4> 進まぬ移転

■記者 石川昌義

日米間ですれ違う思惑

 狭い廊下にはみ出した大型機器を、白衣姿の職員が窮屈そうに扱う。軍隊の兵舎を思わせる放射線影響研究所(広島市南区、放影研)。施設内には、古めかしさと最新の機器が同居する。

 比治山山頂に原爆傷害調査委員会(ABCC)が完成したのは1950年。設計、施工は米軍が担当した。「予算の範囲で補修していますが、追いつきません」。2001年の芸予地震でできた壁のひび割れが今も残り、山根裕幸用度課長の表情はさえない。

 2004年9月の台風18号では、十数時間にわたって停電した。備蓄燃料が減り、自家発電機が停止寸前になった。被爆者が提供し、低温保存している血液が失われかける危機は、職員が軽トラックでガソリンスタンドを回ってしのいだ。

 老朽化問題の打開策として、施設移転が論議されて久しい。広島市は1986年、広島大工学部跡(中区)の7千平方メートルを取得し、受け皿を整えた。市議会も3度、移転を求める意見書を可決した。

 しかし、移転は一筋縄でいかない。「外交」という壁がたちはだかる。放影研の予算は日米両政府が負担する。米国の政治日程やホワイトハウスの方針を理由に、予算の削減や凍結が一方的に通告されることが、過去に何度もあった。昨年度の放影研予算は36億6000万円。10年間で10億円以上減っている。

 放影研は1993年、移転の青写真を固めた。地上五階、地下1階の新施設を九六年春に完成させる計画だった。はねつけたのは、財政赤字の削減に熱心だった当時のクリントン政権だった。

 「握ったデータは離さない。しかも、投資は極力避けたいという態度だった」。移転交渉のため1994年、米エネルギー省(DOE)に乗り込んだ平岡敬元広島市長によると、運営予算を握りながら核兵器開発を担うDOEとの交渉は、すれ違いの連続だったという。

 「放影研は(米国と切り離して)日本が抱えるぞ、と言おうとしたら、外務省から止められた。研究成果の所有権を主張する米国への遠慮があった」。日本政府の姿勢にも疑問を示す。

 放影研は2005年、「将来計画試案」をまとめたが、研究課題の紹介に終始した。識者でつくる専門評議員会から「運営の戦略が示されていない」「(予算危機は)日米両政府とのコミュニケーション欠如を示す」と酷評される始末だった。

 昨年12月、放影研の将来像を議論する第三者機関「上級委員会」が発足した。委員は日米各4人の8人で構成、今後の研究方針や人員体制がテーマに据えられる。しかし、DOEは「(科学的課題以外の)多くの問題を扱うと大変ではないか」と指摘し、運営面での将来論議に消極的な姿勢を見せる。

 広島市や医師会などが移転を要望し続けるが、事態は一向に動かない。平岡元市長は迷走の理由をこう解説する。「研究成果のみに関心を示すDOEと、米国の様子を眺める日本政府。移転問題は放影研の将来を日米双方の政府が真剣に考えていない象徴だ」

(2007年3月2日朝刊掲載)

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