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連載・特集

「放影研60年」 第2部 被爆2世 <2> 少年の死

■記者 石川昌義

健康不安の連鎖やまず

 1968年2月22日、1人の被爆2世の少年が広島市内の病院で、わずか7歳の生涯を閉じた。名越史樹(なごや・ふみき)君。白血病を発症し2年8カ月に及ぶ闘病の末だった。

 両親は手記「ぼく生きたかった」をまとめた。健康不安とともに生きる2世の存在を世に知らしめる1冊となった。朗読劇にもなり、今も各地で語り継がれる。

 史樹君の兄の由樹さん(51)=広島市西区=は現在、安佐南区の総合病院で医療事務の仕事を続けている。弟の入院当時は市内の祖母宅に預けられていたという。「不思議と、弟が重病だった印象はない。両親が家で弟の話をすることもほとんどなかった」。原爆がもたらす健康不安を社会に告発した両親は、同時に、同じ 二世の兄を気遣ったのだろう。家庭では違う顔を見せていた。

 母の操さん(1986年に56歳で死去)は市立第一高等女学校(市女、現舟入高)四年の時、爆心地から2.3キロ離れた牛田町(東区)の自宅で被爆した。戦後は労組書記を務め、市民団体が発行する被爆手記集の編集に携わった。高校教師だった夫の謙蔵さん(2004年に75歳で死去)とともに、被爆者運動や反核運動に奔走しているさなか、史樹君は白血病を発症した。

 「子を亡くした親の悲しみを伝え、書き残すことに執念を燃やし、命を削った。しんの強い人でした」。市女の2年後輩で、被爆手記集の編集を一緒にこなした広島県被団協(金子一士理事長)副理事長の矢野美耶古さん(75)が思い出す。

 「史樹君の母」として操さんはいつも、同世代の母親たちの輪の中心にいた。矢野さんが長男を仮死状態で産んだ体験をあっけらかんと話すと、操さんは「何てのんきなの」。以来、矢野さんの手を引き、平和集会へと連れ出した。

 そんな操さんが、被爆2世の遺伝的影響を調べる原爆傷害調査委員会(ABCC)への心情を吐露した文章がある。史樹君の死の2年前、「白血病のわが子」と題し、被爆2世支援団体の小冊子に寄せた。「ABCCや病院では被爆とは関係ないといいます。しかし、被爆者は、みんな心では関係があると思っているのです。2世、3世、4世と、この犠牲はいつまで続くかわかりません」

 由樹さんは3人の子の父親になった。「子どもが少し寝込んだだけでも『史樹のようになりゃせんか』とぴりぴりする」と打ち明ける。

 明かりの消えた病院の待合室。1日の仕事を終えた由樹さんに、ABCCを引き継いで調査研究を進める放射線影響研究所(放影研)について聞いてみた。被爆2世調査の最新結果でも遺伝的影響は未解明のまま。「はっきり分からない不安はあるけど、『遺伝的な影響がある』と言い切られるよりはいい。これ以上、不安をあおられたら、たまらない」。率直な親心に触れた気がした。

(2007年3月22日朝刊掲載)

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