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連載・特集

『生きて』 詩人 御庄博実さん <4> 兄の死

■記者 伊藤一亘

父の願い受け医学部へ

 開戦の報はよく覚えています。朝の勉強が一段落したころ、ラジオから勇ましい音楽が鳴り、未明に戦闘状態になったことを告げる臨時ニュースが聞こえてきた。軍事教練が嫌いで怠けていた中学生だったけれど、いっぱしの軍国少年でしたからね。一種の戦慄(せんりつ)に似た感動が体に走りました。

 興奮して2階から下り、「いよいよ戦争に突入した」と父に言うと、新聞を読みながら「この戦争は負けるのう」とぼそっと言ったんです。当時、そんなことを言う大人はいなかったから、がくぜんとしたのを覚えています。

 父は不況のあおりで製糸工場を失い、破産に追い込まれて苦労したぶん、国際情勢が分かっていたんだと思います。国同士の力量の違いとかね。あの当時、誰もが開戦の報に身震いして「頑張ろう」という気持ちになったはず。だが、僕は父に冷水を浴びせられ、出ばなをくじかれてしまった。それ以来、うまく戦争に「のれない」感じでしたね。

 2歳年上の次兄、徳義さんは海軍へ。1945年2月、フィリピン沖で輸送船団を指揮中、魚雷攻撃を受けて帰らぬ人となる

 兄は東京高等商船学校(現東京海洋大)にいましたが、1943年の初夏に喀血(かっけつ)し、療養のためしばらく岩国に戻ってました。繰り上げ卒業を控え、既に日本郵船への就職が決まっていたところへ、召集令状が来ました。

 僕は「結核で療養中なのだから医者に診断書をもらい、戦争に行くな」と、召集に応じないよう言いました。しかし、兄は「もう俺(おれ)の同級生はみんな戦争に行ってるんだ。俺だけが行かないわけにはいかない」と言っていました。

 1944年の暮れに帰省した兄と会ったのが最後になりました。年が近くよく兄弟げんかはしたけれど、よくできた兄はずっと僕の誇りであり、目標でもありました。

 戦死の公報が届いたとき、僕は旧制広島高(現広島大)の卒業間近で、志望校を決めなければならない時期でした。父は、期待していた兄の死がこたえたのでしょう、僕に「博よ、おまえだけは兵隊に行ってくれるな」と、つぶやくように言いました。大学生の徴兵猶予が停止となる中、医学部だけに徴兵猶予が残っていました。だから僕は医学部に進み、医師になりました。

(2010年7月30日朝刊掲載)

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