×

連載・特集

原爆文学21世紀へ 前編 作品―そのとき・それから <1>

■記者 梅原勝己

中井正文と「悲劇役者」 芸術の対象なのか 改稿重ねた半世紀

 ヒロシマの惨禍から55年。被爆体験の風化が危ぐされる中、文学のテーマとしての原爆も、アプローチの変容を迫られている。これまでに書かれてきたさまざまな表現スタイルの作品が、どう生まれ、その後の活動にどうかかわっていったのか、広島ゆかりの作家に聞き、「原爆文学」が21世紀にどんな形で生き延びていけるのか、ヒントを探る。

 1953年10月、小説の取材で広島に帰った大田洋子を地元作家が囲む座談会を中国新聞社が開いた。原爆を題材にした作品に話が及び、中井正文は「僕も三、四百枚は書いているが、発表する気がない。どうも思うように書けなくて」と発言している。「悲劇役者」の原稿はその中に含まれていたのである。

 「手を入れ、削り、まあ何とかカタチにして」発表にこぎ着けるのは、書き起こしてから20年後だった。世の中は高度経済成長時代に移っていたが、作品の舞台は戦後3年目のまま。「思うように書けなかった」のは、題材が自分の資質に合っていなかったから。「でも、作家として、これを書かんわけにはいかないだろう」

 カフカの研究者であるため誤解されがちだが、中井の創作の根底にあるのは、ノバーリスやホフマンなど、ドイツロマン派の影響である。戦前の旧制五高、東京帝大独文時代から「新文学派」「星座」「青い花」など文学史に残る同人誌にかかわり、旧制高校生や帝大生の精神に宿る「芸術と愛と死」を描く作風を完成させた。1940年、中央公論社主催の「知識階級総動員懸賞」に大田洋子「海女」と共に当選した「神話」は、「恋愛物語は時局に合わない」という理由で掲載を見送られる。「それで時局に合う題材を見つけようとは思わなかった。でも、原爆のことは、僕なりに何かを見つけなければならないと思ったんだ」

 1949年、戦前に書きためた5編を集めた「神の島」(いつくし文庫刊)を出した後、原爆文学との格闘が始まる。「悲劇役者」と共に戦後すぐに書き始めた「太田川は流れる」は、詩人さかもとひさしと創刊した同人誌「広島文藝派」2号(1972年刊)から連載された。幼なじみの男女が、宿命に引き裂かれても魂で結ばれる内容は、ゲルマン古話をイメージさせるが、引き裂く宿命が原爆であることで、ロマネスクな恋愛物語に明らかなきしみをもたらす。「かみ合わないのは分かってたんだ。でも、これが僕のスタイルだからね」

 同誌創刊号(1971年刊)の「名前のない男」では、被爆者の霊魂が戦後の町を浮遊する、カフカ的な世界に転じていた。「成功した作品かもしれないが、僕のスタイルじゃないんだ」

 さかもとの死で、1975年に同誌は休刊。1990年に復刊する時にも、心を占めていたのは「悲劇役者」と「太田川は流れる」の改稿だった。「悲劇役者」を書き換えた同誌10号(1995年刊)の「炎の画家」では、主人公の画家の自決の理由を、原爆症の発症よりも、芸術上の行き詰まりに求めている。また、若い恋人にケロイドを描かない肖像画を贈る、というエピソードは削った。登場人物の一人には、「原爆そのものを絵にするのが、はじめから無理なんじゃないかね。原爆文学というのは聞いたことがあるようだが、どっちみち原爆そのものは芸術の対象にならんのじゃないか」と語らせ、半世紀ががりの改稿の苦闘を暗示させる。

 今年10月に刊行予定の同誌15号には、「太田川は流れる」を改稿した「本川の眺め」が掲載される。「でもね。直しても直してもまだ、僕は満足できないんだよ」(敬称略)

 <メモ>
 「悲劇役者」は、1969年3月「広島文庫」創刊号に初出。作品集「太田川は流れる」(1982年、溪水社刊)に表題作と共に収録された。原爆で妻子を亡くした画家が、看板かきをしながら無気力な日々を送る。若い被爆者の恋人や仲間たちの励ましで再起を図るが、原爆症の不安から命を絶つ。

 中井正文は1913年、廿日市市生まれで、現住所も同じ。原爆投下時は女学校の教師として、勤労動員の引率で宮島の工場にいた。

 「名前のない男」は「日本の原爆文学(11)」(1983年、ほるぷ出版刊)に収録されている。

(2000年7月31日朝刊掲載)

年別アーカイブ