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連載・特集

マルレを焼いた日 少年兵たちの「本土決戦」 <中> 仮想標的

脱出訓練「とても帰れん」 

 旧海軍は1944(昭和19)年、水上特攻艇「震洋」を開発し、激戦地に送った。「震洋」は作家島尾敏雄の自伝的小説「魚雷艇学生」などで知られる。一方で旧陸軍も同年6月、ほぼ同型の水上特攻艇「四式連絡艇(㋹)」の設計に着手。7月に早くも試運転を行う。

敵艦に体当たり

 その2カ月後、船舶特別幹部候補生隊(船舶特幹)の2期生の少年たちは香川県小豆島の兵舎に入営。翌年、江田島・幸ノ浦(江田島市)の船舶練習部第10教育隊で実戦訓練を受け、海上挺進(ていしん)隊として九州などに配属される。そして終戦―。わずか1年足らずのことだった。

 ㋹は別名「四式肉薄攻撃艇」。全長5.6メートルで自動車エンジンを搭載。船首が標的に当たると、船尾の爆雷が落下する仕組みだった。「敵艦に体当たりして戻る理屈ですが、果たして投下した爆雷の爆発までに脱出できるやら。下手すりゃ沈没です」

 こう思い起こす船舶特幹2期生の勝矢雅治(84)=広島市佐伯区海老園=は小豆島から1945年1月、鯛尾(広島県坂町)の船舶整備教育隊へ転属。さらに幸ノ浦で沖合の輸送船を敵艦に見立てた㋹の訓練に従った。

 植村重利(85)=2期生、広島市西区井口鈴が台=は和歌山市の船舶工兵第9連隊(船工)を経て1945年4月、幸ノ浦へ。最初のうちはオールをこいで進んでペダル操作で爆雷投下し、その後エンジンを掛けて脱出する訓練をした記憶がある。「必ずしも死ぬんじゃないと教えられたけどね」

 元会社員吉見義明(83)=2期生、西区東観音町=は、船腹に向かって旋回し加速して戻れ、と指示された。「ところがエンジンをふかすと、よく止まる。とてもじゃない、生きて帰れんと思いました」。広島一中(現国泰寺高)在学中に入隊し、植村と同じ船工を経て幸ノ浦にいた。

 また、長(ちょう)成連(85)=2期生、呉市阿賀中央=は1945年1月、小豆島から櫛ケ浜(周南市)の機動輸送補充隊に配属。本来は戦車輸送揚陸舟艇の部隊だが、基地自体は静かで、士官たちは紳士的だった。同年5月、幸ノ浦への転属命令が出た直後、隣の徳山の市街地は海軍燃料廠(しょう)を標的にした大空襲を受けた。

 長は「㋹は船尾の爆雷を落とした途端、船体のバランスが崩れ、エンジンが止まることもあったようだ」と証言。「実際に乗ったのは3、4回。それで命がけの戦いに駆り出されるんだから…」

1期生多く戦死

 太平洋戦争末期、「本土決戦」に備えて陸軍が募集した15歳から20歳までの船舶特幹は1期生が44年4月に入隊した。同じ㋹の要員だった2期生はわずか5カ月遅れの入隊だったが、それが運命の分かれ目だった。

 「陸軍水上特攻隊ルソン戦記」(光人社)の著者で船舶特幹1期生、儀同保の調査によると、1期生は海上挺進隊に編成された1691人のうち1140人が沖縄やフィリピンなどで戦死。その悲劇の全貌が世に知られるのは、儀同らの尽力による「㋹の戦史」(若潮会編、1972年初版)を待たなければならなかった。

 幸ノ浦には甲種幹部候補生(甲幹)の見習士官も集結。元島根県職員森山正治(88)=雲南市大東町西阿用=は甲幹卒業を控えた1945年4月、「近く特別な任務に当たるので外泊を許可する」と指示された。「自分もうわさの㋹要員かと思うと、飯が喉を通りませんでした」。森山はその後、海上挺進隊34戦隊の小隊長として北九州に向かう。=文中敬称略(佐田尾信作)

(2011年8月17日朝刊掲載)

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