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連載・特集

復興の風 1950年 紙屋町交差点 焼け跡 活況運んだ電車

負傷の運転士 動脈守る

 被爆電車がカタンカタンとリズムを刻む。広島市中区の紙屋町交差点。北西には市営の木造住宅の屋根が連なっている。

 北側の広島城に延びる道路は当時、「マッカーサー道路」と呼ばれ、原爆投下後の街の再建に伴って新設された。交差点はいま、平和都市きってのにぎやかなかいわいになった。

 広島電鉄の元運転士河野弘さん(87)=安佐北区=は、「被爆し壊れた電車を修理して走らせていた。直後は物資が不足し、窓ガラスがない車両も多かった」と記憶する。

 原爆で123両中、108両が被災した。しかし、わずか3日後の8月9日には、当時の己斐―西天満町間で運行を再開した。被爆し一命を取り留めた先輩の運転士からは、焼け跡の防空壕(ごう)で寝起きし、傷も癒えないうちに電車を動かしたと聞いている。街には徐々に人の往来が戻り、路面電車は窓枠などを握った利用者が、車外にぶら下がるほど混み合った。

 河野さんは1949年に入社した。「ただ乗りやスリが横行する混沌(こんとん)とした時代だったが、とにかく必死で運行を守った」。先輩が文字通り自らの被害も顧みず再開した「暮らしの動脈」を受け継ぐ使命感にあふれていた。

 乗務のたび、運転席から復興の足どりを実感した。「道路幅が広がって、視界が開けていくのが新鮮だった」。それもつかの間、沿道を商店やビルが埋めていった。

 街を走り続けた路面電車の運行は、ことしで1世紀を迎える。鉄道を守る思いは、東日本大震災の被災地でも変わりはない。「高齢者は特に、公共交通が失われると生活が厳しい。大切な役割がある」と河野さん。被災地で踏ん張る同業の仲間の姿に、かつての先輩や自分を重ねた。(野田華奈子)

(2012年6月28日朝刊掲載)

復興の風 1947年 原爆ドーム 廃虚の「叫び」夢中で描く

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