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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <1> 顧みて

新聞社の歩み 記す使命

 中国新聞社の被爆からの再建と躍進を率いた元社長・会長、山本朗氏(1919~98年)が回想録を書き残していた。広島を拠点とする報道機関の歩みを克明に記したメディア史であり、激動の昭和をどう生き抜いたかの自分史である。創刊120周年を記念して25回にわたり公開する。

 昭和58(1983)年、アキバ・プロジェクトで来広した米国人記者の一人が、原爆を受けた中国新聞社はその時どういう活動をしたのか、またどのように復興をしたのか、ぜひ聞きたいと言う。私の知る限りを2時間余り話した。

 私は(1945年)9月2日に(千葉県の第二海軍航空廠(しょう)から)復員した。それ以降のことなら確信をもって語れる。しかし、8月6日のことは見ていない。既に40年近く前のことだ。関係者も数少ない。それでも、米国人記者は生存者から熱心に話を聞いて帰国した。私も遅ればせながらやろうと決心した。書き残しておかなくては、その時からのことが分からなくなってしまう。

 アキバ・プロジェクトは、本人が理事長を務めていた広島国際文化財団が被爆の実態を伝えるため1979年から88年まで米国の記者を招いた事業。83年に訪れたロバート・マノフ記者は、被爆直後の惨状を記録した元中国新聞社写真部員らを取材。「核の秘密性対民主主義」と題して、原爆報道の始まりを米原子力科学教育財団の専門誌でリポートし、反響を呼んだ

 私は大事だと思うことは必ずノートをとっていた。復員して直ちに総務局長事務取扱となり、局日誌を付けた。惜しむらくは1日の記載が簡単なのだ。しかし、いつから(原爆で全焼した広島市中区胡町の)本社の清掃を始めたのか、(東区温品に疎開させていた)1台の輪転機の分解移動をしたのか、そういう事実関係は完璧である。

 昭和23(1948)年の大争議(労組のストで朝刊発行が3日間停止)は、労組との一問一答まで書いている。日本新聞協会の津田正夫事務局長が(50年の)「レッドパージ」指令のためわざわざ来広した時、その発言をすべて走り書きした。当時の日記類もある。

 私は物心ついた時から新聞社の雰囲気の中にいた。そういう中で成長し、(東京帝大を卒業した41年)入社した。そこで生い立ちから今日までを書いてみることにした。昭和59(1984)年夏からほぼ10カ月間書き続けた。久しぶりにペンだこをつくった。今となっては私しか知らないことがある。これらを正確に伝えておきたい。そういう思いに駆られ資料に忠実に書いてみた(最終的には90年秋まで執筆を続ける)。

 中国新聞は原爆を受けた。社の焼失はもとより社員113人が亡くなった(現在は114人の犠牲者を確認)。それが後の復興に大きな影響を与えたのは間違いない。組合結成、(社長だった)父山本実一の公職追放と続いた。よくも組織が保たれたものだ。

 私は経営者として自分で体験した問題の中から、大切だと思うことを選びだした。書くべきかどうか迷ったのは同族問題である。昭和44(1969)年、本社を土橋町(中区)に移転してからは社屋も設備もすべて新聞社自体のものである。何ものにも煩わされず独立している。その経緯も明確にした。経営に重点を置いたため、ニュースとのかかわりが希薄になったのはちょっと残念な気がする。

(2012年9月25日朝刊掲載)

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