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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <12> 再建の一歩

台風猛威 輪転機を戻す

 昭和20(1945)年9月半ばは大雨の連続だった。ついに17日夜半には暴風を伴って猛威を振るった。枕崎台風である。温品村(広島市東区)の川手牧場前の川(現府中大川)も増水して、輪転機の足元までえぐった。当分、「温品版」は出せない。どうするか。

 私は村上哲夫氏(主筆)と、太宰博邦県警察部特高課長(後に厚生省次官)に会った。水害の実情を話して、再び代行印刷をしてほしいと協力を申し入れた。課長は承認したが、いつまで(戦時中の)新聞相互援助契約を頼りにするのか、早く自立の体制を立てろと厳しかった。もっともなことだと思った。

 温品村での9月3日付からの自力印刷は18日付で終わる。以降は朝日、毎日新聞両本社が印刷した「中国新聞」の題字入り紙面を受ける。枕崎台風で県内の死者は2012人に上るなど甚大な被害を受けた(「広島県砂防災害史」)

   川手牧場は輪転機の疎開置き場として選定されたが、交通不便な地に執着したら復興に立ち遅れてしまう。早く上流川町(中区胡町)の本社に帰ろう。そのためには社屋の残留放射能の調査が急務だ。(原爆災害の調査に入った医学者で)東京帝大都築正男教授の意見を求め、広島文理科大に強度検査を依頼した。いずれもOKを得た。

 「さあ、本社へ帰ろう」。それを合言葉にみんな奮い立った。まず本社の清掃である。中国復興財団に依頼し、21日から100人、26日までかかった。床上に何センチもの灰が積もっていたから大変だった。また中国ビル4階を臨時の社員寮として被災社員に提供した。

 20日からは(ガリ版で刷った)本業のニュース時報の貼り出しを(鉄道沿線の各駅で)毎日行った。問題は輪転機の解体と運搬である。22日に東洋工業(マツダ)の技師に視察してもらい、翌日から解体作業に取りかかった。

 一段落したところで30日、一番気にかかっていた物故社員の慰霊祭を本社3階で営んだ。焼け跡も生々しい壁に白黒のまん幕を張り、形ばかりの祭壇を設け、僧侶3人が読経した。鬼気迫るような慰霊祭だった。しかし、故人も遺族も関係者も心に染みたのではなかったか。私は心から冥福を祈り、これからの復興を固く誓った。

 10月1日、本社に引っ越した。社長訓示に続いて私から臨時措置の新編成を発表した。全員を総務部と復興部に分けた。代行印刷を依頼中とはいえ、地元ニュースの取材、送稿をはじめ日々の業務は必要である。これを総務部とし、復興部は本社復帰のための諸準備に専念したのである。

 2日、輪転機の馬車による運搬を開始した。(広島デルタの橋も壊れた)水害の後だけに難渋を極めた。8日、幣原喜重郎内閣誕生。「中国特報」として初めて印刷して喜んだが、夕方になり巻き取り紙(新聞印刷紙)が(海田町にあった陸軍需品廠(しょう))倉庫明け渡しのため屋外に放出されたとの報告あり。全員が現場へ行ったが、雨降り。慣れぬ作業に困惑した。

 中国新聞記者だった大佐古一郎氏の「広島昭和二十年」によると、進駐する米軍が倉庫を使うので「巻き取り紙を至急搬出せよ」と中国軍管区司令部から命令があった。荷馬車もトラックもない中、30本を軒下に戻したが百数十本は使用不可能になったという

(2012年10月10日朝刊掲載)

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