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連載・特集

『生きて』 ドキュメンタリー作家 磯野恭子さん <6> 放送界へ

個性生かす場 TV志望

 皆実高を卒業して1年後、単身で東京へ移り住んだ。予備校通いが目的だったが、厳しいアルバイト生活で疲労が蓄積していった

 今みたいにスーパーマーケットやコンビニがない時代。買い物を手間と思う学生の家を回って日用品や食料を売る。そんなアルバイトをやっていた。簡単な食事の材料を持ち歩き、担当エリアの家を訪問して売っていく。見知らぬ土地を1日に3時間も4時間も歩く。楽しいはずがないですよね。

 祖師谷大蔵(世田谷区)にある、いとこの知人の家を1部屋借りて住んでいた。予備校に通ったけれど、アルバイトがきつくて実力が落ちるわけですよ。そのうち気管支も患い、精神的にもへとへとになった。

 女性でも自分の力を発揮し、自分の道を築こうと出てきた東京生活は挫折に終わった。自分の野心や希望とかは白紙に戻してやり直そうと思い、広島に帰りました。

 1955年春、広島大に入学。政経学部で学んだ

 アルバイトはしませんでした。江田島を引き払った家族と五日市町海老塩浜(現在の広島市佐伯区のJR五日市駅南側住宅地)に住んだ。大学は自分が好きなことを好きにやれる自由があった。焦燥に駆られた東京の生活から解放され、人間性を回復するような雰囲気だった。

 人生の希望がよみがえり、個性を生かせる就職を考え始めた。それはマスコミだった。私の個性を問われたら、感性だと答える。物事を熱く感じることでは、人に負けない。マスコミが、この個性を生かすにはとても良い職業だと思い始めた。

 当時、始まったばかりのテレビが時代のキーワードでもあった。全国でテレビの開局計画があり、求人も多かった。私は取材して、番組を作りたいと思ったけど、報道や制作の求人は男性だけ。でも、各地で女性アナウンサーの募集があった。

 59年4月、ラジオ山口(現山口放送、周南市)にアナウンサーとして採用された。同期の新入社員は39人。年末までに、さらに24人が加わった。テレビ開局の年だった

 文字の世界だったマスコミに絵の世界がスタートする。新しいジャーナリズムの世界。アナウンサーでも何でもいい。とにかく放送界に入って、いずれは番組制作を任されたい。女性の開拓者になるとの決意で入社しました。

(2010年12月7日朝刊掲載)

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