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連載・特集

『生きて』 洋画家 入野忠芳さん <9> 「裂罅」

体験映す会心作で受賞

 1975年、「裂罅(れっか)」シリーズの1点が第11回現代日本美術展で大賞を受賞する。日本国際美術振興会などが主催した現代美術の登竜門的な賞だ

 大学を出てからは自由美術展にも出さなくなっていた。評価される場に出すのは久々でした。出来た時に意外な気がした絵だが、やはり会心作という手応えはあったんだね。

 受賞の一報は、大学の恩師で自由美術協会の井上長三郎先生からあった。審査員の一人だった美術評論家の針生一郎さんが「入野って何者だ。知ってるか」と井上先生に問い合わせたらしい。

 井上先生、この後で「皆に『うちの入野』って紹介しちゃった。自由美術に復帰してくれないか」と言ってきて。短期間ですが、また自由美術展に出した時期があります。

 100号の油彩。新聞紙で絵の具を拭き取るようにして描いている

 引き算の発想、プラスではなくマイナスで描いた絵。僕の生い立ちに重なります。「裂罅」すなわち「ひび割れ、裂かれた」のは、左手をなくした僕の体であり、ヒロシマでもある。死者と生者が引き裂かれた、ね。高度経済成長を経た日本の風景に封印されている「裂け目」を描いたつもりです。

 実は、翌年の現代日本美術展にも別の「裂罅」を出した。一度大賞を取ったら出さないのが普通らしいんだが、知らなくてね。その年の審査員に入っていた劇作家の寺山修司さんが「これを大賞に」とこだわって、事務局を困らせたと聞きました。

 「裂罅」シリーズに反響が続く

 前衛短歌の歌人塚本邦雄さんが気に入ってくれ、私家本の挿画に使ってくれた。長編小説「死霊」で知られる作家埴谷雄高(はにや・ゆたか)さんの論集のカバー絵にも使われました。これは編集者の独断でね。何人もの画家の絵を埴谷さんに見せるんだが、どうしてもOKが出ない。「もう間に合わない」と編集者が勝手に採用し、結果的には埴谷さんにも喜んでもらえた。

 埴谷ファンだったからうれしかった。後でご自宅に伺った時、「一日でも長生きしなさい」と言われたのが印象に残っています。

(2013年6月26日朝刊掲載)

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