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連載・特集

『ピカの村』 川内に生きて 第1部 「あの日」から <1> 最後の一人

大黒柱亡くした妻たち

困苦の時代 励まし合う

 広島県川内村(現広島市安佐南区)は、市郊外にありながら「ピカの村」と呼ばれた。一家の大黒柱を原爆に奪われた70人以上の妻が残された。必死に土を耕し、困苦の時代を生き抜いた女性たち。被爆68年の夏を迎えるのは、野村マサ子さん(92)ただ一人になった。一発の原爆が何を人々にもたらしたのかを考えるため、川内を歩いた。(田中美千子)

 原爆の日を1カ月後に控えた6日。野村さんは朝早く、広島市安佐南区川内6丁目の家を出た。浄行寺まで、約400メートルの道のり。手押し車に小さな体を預け、ゆっくりと進む。68年にわたり毎月、夫の月命日に通い続けてきた。「何年たっても、あの日が忘れられんのです」

 川内村は1945年8月6日、国の命令で国民義勇隊として市街地の建物疎開に動員された約200人を、米国が投下した原爆によって失った。夫を亡くした妻を含む遺族は浄行寺で翌9月から、月命日の法要を営んできた。

 広い本堂を埋めた妻たちは1人、また1人と他界。ことし3月、住居治子さんが101歳で亡くなり、野村さんだけになった。この日の法要も、坂山厚住職(64)の読経に一人、小さな声を重ねた。あの日の夫の姿を思いながら―。

 六つ上の夫信一さんには、21歳の時に嫁いだ。隣村の、実家と同じ農家。夫は稲こぎで右人さし指の先を失っていて、銃が撃てないと徴兵を免れていた。

 「男前さんでね。優しい人でした」。43年に授かった一人娘がハイハイを始めると、夫は四つんばいで追い掛けては笑った。貧しくても、幸せだった。

 あの朝。夫も建物疎開に向かった。行き先は今の平和記念公園の南側にあたる中島新町(現中区中島町)。夫は川船に救助され、奇跡的に連れ戻されたが、全身を焼かれていた。片足に破れた地下足袋が残るだけ。「水をくれ」「腹がにがる(痛い)」とのたうち回る。「今思うても息苦しくなる。生き地獄でしたよ」。夫はその夜、息を引き取った。

 残された者にも「地獄」が待っていた。24歳だった野村さんに、2歳の娘と病弱な義父との生活がのしかかった。夫が残した田畑は6反(約0・6ヘクタール)。暗いうちから耕した。それでも国の供出制度の下、米や野菜の大半が二束三文で買いたたかれた。

 娘が小学校に入ってから、村が夫を失った女性向けにあっせんした日雇い労働にも出た。胸まで泥水に漬かり、むしろの材料となるガマを刈る仕事。重労働だが、出来高払いで300円以上が手に入った。大卒の公務員でも初任給が1万円に達しなかった時代。競うように鎌を振るった。

 世間の風も冷たかった。「川内を『ピカ後家村』と呼ぶ人もいましたよ」。心も体も休まらない。疲れ果て、娘の寝顔を見ては泣いた。「川に飛び込もうか、思うたこともあります」。踏みとどまれたのは、同じ境遇の妻たちがいたから。「みな辛抱しとられた。励ましおうてきたんです」

 長女政江さん(70)夫妻との暮らしは今、穏やかに過ぎる。「豊かな時代、あんな生き方は理解されんでしょうね」。それでも願わずにいられない。「戦争は嫌です。若い人が仲良う平和を守ってくれなきゃ」。目をつぶり、しわを刻んだ手を合わせた。

(2013年7月7日朝刊掲載)

『ピカの村』 川内に生きて 第1部 「あの日」から <2> 母の背中

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