×

連載・特集

『ピカの村』 川内に生きて 悲しみに耐え 女性強く 夫たちは義勇隊で被爆死 心寄せ合い重労働

 農村から住宅地に姿を変えた広島県川内村(現広島市安佐南区川内地区)。原爆に夫を奪われた「あの日」から、残された女性たちは苦難の人生を歩んできた。原爆の犠牲者である彼女たちの声に、いま一度耳を傾ける。(田中美千子、石井雄一)

 市中心部から北に約10キロ。広島菜の産地として知られる川内地区はその名の通り、太田川と古川にはさまれている。肥えた土に恵まれ、戦前から畑作が盛んだった。戦中は広島、呉の陸海軍に野菜を出荷。軍都の「食料庫」の役割を担った。

 川内地区の総面積は174ヘクタール。1970年に101ヘクタールを占めた農地は、宅地化で急速に減り、現在は23ヘクタールに。118万都市のベッドタウンに様変わりした。5月末現在で5437世帯、1万4154人が暮らす。

 その川内の土に「戦争の悲惨さが詰まっている」と、民俗学研究家の神田三亀男さん(90)=広島県府中町=は言う。80年から1年半にわたり川内地区を歩き、原爆で夫を奪われた女性19人の証言集「原爆に夫を奪われて」(82年、岩波新書)を編んだ。

 神田さんは戦後、県庁に勤め、50年代から県内の農村指導に当たった。川内地区にも指導に入った。男手がない中、女性たちが懸命に畑を守る姿に心打たれた。「原爆は女の生き方を変えた。戦争の生き証人の言葉を残したかった」。女性たちは苦難の人生を口々に語った。

 川内村の運命を決めたのは45年7月、川内村国民義勇隊が受けた出動命令だった。市街地での建物疎開と、八千代町(現安芸高田市)での飛行場造り。村は当時、温井(現川内2、5、6丁目)、中調子(同1、3、4丁目)の2地区があり、義勇隊は地区ごとに二手に分かれることに決めた。8月6日の建物疎開は温井側が担った。

 出動先は、今の平和記念公園南側の中島新町(現中区中島町)。爆心直下のすぐ近く。疎開作業に従事した人は全滅した。川内村が52年に作成した「義勇隊連名簿」によると、犠牲者数は183人。200人を超えたとの説もある。

 当時の村の人口は約550世帯、約2300人。村民の1割が犠牲になった。男女はほぼ半数ずつ、男性は40、50代が8割を占めた。

 一家の働き手を失った妻や子どもが多数残された。あきらめきれない妻たちは、10キロ以上ある市街地への道のりを何度も往復し、遺体の山に夫を捜した。亡きがらが見つからなかった人も少なくない。

 待っていたのは苦難の日々。悲しみに暮れる間もなかった。女性たちは体にむち打ち、亡夫の野良着を着て残された畑へ出た。生きるため、子どもを養うために。

 暗いうちから起き出し、大八車などに野菜を積んで市内へ通った。おけを担いで民家を回り、野菜と交換で下肥を集めた。

 復興事業などの日雇い労働にも出た。国の援助は53年に年3千円の弔慰金が出るようになるまで皆無だった。

 それでも心を寄せ合って生きた。49年、互助組織「白梅会」をつくった。洋裁教室を開いたり、潮干狩りに誘い合ったりして互いを励ました。月命日の6日には毎月、地元の浄行寺で追悼法要を営み、共に涙をこぼした。

 神田さんに証言した女性19人のうち、存命なのは野村マサ子さん(92)ただ一人。「今の川内をつくったのは、あのおばあさんたち」と神田さんは力を込める。決して忘れてならない歴史が、そこにある。

<川内地区と原爆で夫を亡くした女性を取り巻く動き>

1889年 4月 温井、中調子の2村合併で川内村に
1945年 3月 国民義勇隊の編成を閣議決定
       5月 広島県が市町村に義勇隊結成を指示
       7月 川内村の義勇隊に県が広島市中心部での建物疎開作業を命令
       8月 米国が広島市に原爆を投下
       9月 浄行寺で月命日の追悼法要始まる▽川内村合同慰霊祭
  47年 5月 日本国憲法施行
  49年 2月 戦争で夫を失った川内村の女性の互助組織「白梅会」が発足
       9月 広島市連合未亡人会(現広島市母子寡婦福祉連合会)結成
  52年 4月 戦傷病者戦没者遺族等援護法施行。義勇隊の遺族も弔慰金支給の対象に
  53年 2月 白梅会が川内小敷地に「川内村戦没者戦災死者供養塔」を建設
  55年 7月 川内、緑井、八木の3村が合併して佐東町に
  58年 5月 戦傷病者戦没者遺族等援護法改正。義勇隊遺族も遺族給与金の対象に
  63年 4月 戦没者等の妻に対する特別給付金支給法施行。義勇隊の遺族の妻も特別給付金の支給対象に
  64年 8月 平和記念公園に「義勇隊の碑」完成
  73年 3月 佐東町が広島市に編入合併される
  80年 4月 広島市が政令指定都市移行。区設置で川内地区は安佐南区に
  82年 2月 神田三亀男著「原爆に夫を奪われて」出版
  88年 2月 川内地区に山陽自動車道広島インターチェンジ(IC)開所
  99年10月 川内地区一帯の古川土地区画整理事業が完成
2010年10月 国勢調査で川内地区の人口は1万3847人。2375人だった44年2月の約6倍に

国民義勇隊
 第2次大戦末期の1945年、本土決戦に備え、国が地域や会社ごとに編成させた組織。対象は12~65歳の男性と、12~45歳の女性。建物疎開や警防活動などに従事した。原爆資料館(広島市中区)の推計では原爆投下当日、広島市内には大竹市など周辺からも含めて1万1633人の義勇隊が動員され、うち4632人が被爆死したとみられる。

国民義勇隊の遺族への援護制度
 1952年の戦傷病者戦没者遺族等援護法施行で、国民義勇隊の遺族が援護対象に。53年から10年間、国は弔慰金として毎年3千円を支給した。58年の同法改正で義勇隊は準軍属と位置づけられ、遺族給与金が支払われるようになった。年2万5500円で軍人、軍属の遺族の半額。63年、5年間の支給期間制限が撤廃された。74年から軍人、軍属の遺族と同じ金額になり、物価上昇に合わせて段階的に増額された。現在は年196万6800円。これに63年から年20万円の「戦没者等の妻に対する特別給付金」が上乗せされている。

(2013年7月7日朝刊掲載)

『ピカの村』 川内に生きて 第1部 「あの日」から <1> 最後の一人

年別アーカイブ