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連載・特集

ヒロシマを標(しるべ)に <上> 建築史家・京都工芸繊維大教授 松隈洋さん

建築に込めた平和の願い

丹下の歩み 戦後日本の姿

 東日本大震災から3度目の夏を迎えた。68年の歩みを重ねてきたヒロシマの意味はどう変わり、その役割はどう受け止められているのか。「8・6」を標(しるべ)としながら、「3・11」以後の表現や研究を通じて復興の手だてを模索する人たちがいる。彼らとともに歩いた。(渡辺敬子)

 建築史家で京都工芸繊維大教授の松隈洋さん(55)が、広島市中区の原爆資料館のピロティから原爆ドームを望む。手前には原爆慰霊碑。「彼には、ここからどんな未来の風景が見えていたのだろう」。平和記念公園とそこに配した施設群は日本を代表する建築家丹下健三(1913~2005年)の実質的デビュー作だ。

 ことし生誕100年の丹下。その足跡は、瀬戸内国際芸術祭のメーン企画として香川県立ミュージアム(高松市)で開催中の回顧展でたどることができる。実行委員を務める松隈さんは「その後の活躍が大きすぎて見えなくなりがちだが、丹下の原点はヒロシマにある」と指摘する。

中心にドーム

 遅々として進まない復興を打開しようと、特別立法として広島平和記念都市建設法が制定された1949年。まだ保存も決まっていなかった原爆ドームを計画の中心に据え、平和記念公園の設計コンペに当選した。

 丹下は当時の雑誌に設計に当たっての思いをつづる。「平和は訪れて来るものではなく、闘いとらなければならない」「新しく設けられる記念館は平和をつくりだす工場でありたい」。若さと情熱がほとばしる。

 旧制広島高に学び、東京帝国大に進んだ丹下。原爆投下で青春を刻んだ街と級友らを奪われた。

 戦災復興院の嘱託として広島で復興計画づくりに参画。立ちすくむような廃虚の再建に挑んだ。戦中から資材統制で木造建築しか造れず、55年完成の原爆資料館は初めて手掛けた鉄筋建築だ。

 「あれだけ多くの命がなぜ奪われたかという無念さ、生き残った人々の希望を背負っていたからこそ、やり遂げる信念を持てた」。民衆のエネルギーにも支えられた。

 松隈さんは「丹下の歩みは戦後日本の自画像そのもの」と感じる。丹下は被爆地での実績をてこに、香川県庁舎(58年)や東京オリンピックの国立代々木競技場(64年)、大阪万博のお祭り広場(70年)など舞台を広げた。バブル経済期は東京都新庁舎を手掛け、中東の富豪と親しく付き合い、勲章を手にする。

 「その到達点は、高度経済成長の行き着く果てのようで嫌悪感すら感じていた」と当時の印象を振り返る。本人にインタビューする機会も何度かあったが、ヒロシマへの思いは後に知った。

向き合い自問

 「私たちは、丹下が広島の建築に込めた力を受け止めてきたのだろうか」。大震災と原発事故を経て、回顧展の準備で丹下の足跡と向き合いながら自問を重ねてきた。

 松隈さんと双子の弟は中学生の時、赤血球が少ないと診断されたことがある。父親が長崎の被爆者であることは知っていたが、86歳となった父親に被爆体験を初めて聞いたのは3・11の後だった。「影響の有無は分からないが、時限爆弾を抱えているようだ。福島に暮らす人々も今、見えない放射能と闘い、同じ思いをしている」と話す。

 原爆ドームの保存を市が決めたのは66年、ユネスコ世界遺産の登録は96年。丹下のまなざしは半世紀先を予見していた。「東日本大震災の被災地の現実を前に、丹下のような志を持ち、建築を構想できる人間がどれだけいるだろうか」

 平和記念都市の建設に込めた丹下の思いは、時とともに薄れてはいないか。松隈さんは自戒を込める。「今こそ原点に戻り、戦後の歩みを見つめ直す時だ。平和をつくりだす工場の操業を停止してはいけないのだから」

まつくま・ひろし
 兵庫県西宮市生まれ。京都大卒業後、前川国男建築設計事務所に入所。京都工芸繊維大助教授を経て08年から現職。近著に「残すべき建築」(誠文堂新光社)。前川国男、村野藤吾、坂倉準三らの展覧会も手掛ける。京都市在住。

(2013年7月26日朝刊掲載)

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