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連載・特集

ヒロシマを標(しるべ)に <中> 原爆の図丸木美術館学芸員 岡村幸宣さん

「原爆の図」に新たな視座

見えない脅威 感じる力を

 1945年8月6日、原爆投下の知らせが疎開先の埼玉に届いた。広島市出身の画家丸木位里(1901~95年)は、妻の俊(1912~2000年)とともに郷里に駆け付けた。この体験が、被爆者の肉体の痛みを生々しく描いた全15部の連作「原爆の図」の共同制作へとつながる。

固定イメージ

 朝鮮戦争が始まり、核兵器使用の危機感が高まった50年。第1部「幽霊」が完成し、巡回展も始まった。所蔵する原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)の学芸員岡村幸宣さん(39)は「連合国軍総司令部(GHQ)の占領下、原爆の記憶を共有しようとする最も早い試みだった」とみる。

 時代のうねりから生まれた作品は、やがて「反戦平和の象徴」という価値観の枠にはめ込まれていった側面も持つ。岡村さんは今、東日本大震災以後の世界と「原爆の図」を結ぶ新たな回路をつくろうとしている。

 広島、長崎、ビキニ、スリーマイル、チェルノブイリ、そして福島。核被害の歴史と向き合う作家たちの絵画や写真、彫刻と「原爆の図」を組み合わせて「化学反応を起こしたい」という。「位里、俊の作品と同じ空間に展示すると、作家は対峙(たいじ)する力が試される。印象に残らず、吹き飛んでしまうときもある」と率直に語る。

 2011年5月、東京・渋谷駅にある岡本太郎の壁画「明日の神話」の右下に継ぎ足す形で、爆発した福島第1原発の原子炉建屋を思わせる絵があるのが見つかった。

 「犯行声明」を出した芸術家集団Chim↑Pom(チン↑ポム)は書類送検されたが、岡村さんは「第五福竜丸事件を題材に、核と対峙しようとした岡本太郎の問題意識を現代によみがえらせた」と評価する。当事者としての自覚がにじみ、08年に飛行機で原爆ドーム上空に「ピカッ」という煙の文字を描いて批判を浴び、謝罪した時とは違う切実さを感じた。

 同年12月、原発事故と原爆を主題にした彼らの作品を丸木美術館に並べた。懸念の声もあったが、「対極にある彼らの作品と並ぶことで、イメージが固定化している『原爆の図』の新しい受け入れられ方が生まれるのではないか」と狙いを説いた。開幕後、山里の美術館に若者がタクシーで乗りつけ、最終日の入館者は一年で最も多い8月6日を上回った。

 「チン↑ポムの作品は軽さや危うさもあるが、等身大の日常と核との距離を鮮やかに縮める手法は、若い世代を強く引きつけた」。美術館の裾野が広がる手応えを得た。

時空超えた絆

 文学、芸術分野での原爆や核をめぐる表現を検証する研究者たちでつくる「原爆文学研究会」にも参加する。4月に福島大で開いた例会では、震災後の表現者たちの新たな挑戦を報告した。

 翌日のフィールドワークで、福島県飯舘村を離れて福島市で酪農を再開させた田中一正さん(42)と出会った。自身の被災を機に、父親が広島の被爆者であることを再認識した彼の言葉が忘れられない。「私は被爆2世であり、被曝(ひばく)1世となった」。この8月6日、証言者として美術館に招く。

 震災以後、岡村さんは「原爆の図」の見え方が変わったという。例えば、広島での救出活動を描いた作品。何も描かれていない空白に、見えない放射能の脅威を感じるようになった。「広島と福島が66年の時を超えてつながった」

 広島市の3美術館で開催中の合同企画展「アート・アーチ・ひろしま2013」にも、「原爆の図」から2点を貸し出した。広島の人たちにも新たな発見があるはずだと信じている。(渡辺敬子)

おかむら・ゆきのり
 東京都昭島市出身。東京造形大造形学部卒業後、同研究生過程修了。2001年から現職。東京新聞での連載をもとに「非核芸術案内―核はどう描かれてきたか」を岩波書店から年内に刊行予定。埼玉県川越市在住。

(2013年7月27日朝刊掲載)

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