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連載・特集

『ピカの村』 川内に生きて 第2部 支え合って <5> 慰霊碑

義勇隊180人しのび建立

祖父の思い 孫らが継承

 真夏の太陽が照りつけ、セミの声に包まれる広島市中区の平和記念公園。その西側を流れる本川沿いの緑地に「義勇隊の碑」は立つ。原爆で全滅した広島県川内村(現安佐南区)の国民義勇隊。石碑の裏には、犠牲になった180人の名前がびっしりと刻まれている。

 「娘はわしの身代わりになって死んだ」。安佐南区川内6丁目の農業上村利樹さん(59)は碑を訪れるたび、祖父繁さん(1981年に85歳で死去)が生前に何度も口にしていた言葉を思い出す。

 繁さんは米国が広島に原爆を投下した45年8月6日、緑井村(現安佐南区)の病院に入院していた。虫垂炎の手術後に傷口が化膿(かのう)し、回復に時間がかかっていた。

 繁さんは当時49歳。義勇隊の分隊長を任されていた。代わりに義勇隊に出た長女静美さん=当時(21)=が、爆心地に近い中島新町(現中区)で建物疎開作業中に被爆死した。「何でこんな時に病気になってしもうたんか」。繁さんが病室で悔し涙を流していたと、上村さんは後に叔母から聞いた。

 繁さんをさらに苦しめたのは、村の仲間の死。遺族と顔を合わせるのもつらかった。「祖父は責任感の塊のような人。生き残ってしまったという負い目が強かったのでしょう」と上村さん。繁さんは自分の畑はそっちのけで、男手を失った近所の農作業を手伝った。

 娘や村の仲間の供養には特に力を注いだ。46年、義勇隊が休憩場所にしていた材木町(現中区)の誓願寺の焼け跡に供養塔を建てた。平和記念公園や平和大通りの建設で、63年に寺が三滝山の麓に再建されると、供養塔も寺の墓地に移された。

 「義勇隊が被爆した地で供養したい」。繁さんは遺族のそんな声を耳にした。地区を駆け回り、慰霊碑の建立に向けた世話人を集めた。遺族会長として市と交渉を重ねた。碑は64年8月、完成した。

 その年から毎年8月6日朝、遺族会は義勇隊の碑の前で合同慰霊祭を開いている。案内状は出していないが、昨年も川内地区の住民や遺族たち約200人が集まった。「碑は川内がともに悲しみ、助け合ってきた歴史の象徴」と上村さんは言う。

 上村さんは2005年、父哲雄さん(87)の後を継いで遺族会の役員になった。今では役員9人中、上村さんを含め3人が戦後生まれだ。「当時を知る遺族がどんどん亡くなっている」との危機感から、遺族会はことし、証言や資料集めに取り掛かることを決めた。

 「尊き犠牲を永久に語りつたえ、今平和のきざしこの地より出ずる」。碑文の言葉を、上村さんは祖父から託された使命のように感じる。

 その思いは同居する次男隆介さん(30)にも伝わる。「父たちの気持ちを受け継いでいきたい」と慰霊祭に参列するつもりだ。被爆68年の夏、慰霊と継承への誓いが碑前で重なる。(石井雄一)

 「ピカの村 川内に生きて」は今回で終わります。

(2013年7月29日朝刊掲載)

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