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連載・特集

コレクション再発見 荻太郎「歴史」(呉市立美術館)

被爆死の親友 胸に描く

後進に問う「命懸けの絵」

 荻太郎(1915~2009年)は、新制作協会で最初期から活動した洋画壇の重鎮。戦後、生と死をテーマにした重厚な連作を描き続けた。

 呉市立美術館が所蔵する「歴史」(60年)もその一つ。火とも血とも見える赤色の中に、人らしき形が逆さまに突っ込んでいる。猪熊弦一郎、小磯良平たちのモダンで優美な作風で知られる会派にあって、異色といっていい。

 「荻がなぜ、こうした絵を描き続けたか。親友の死が影響したのは間違いない」と同館の寺本泰輔館長(75)は言う。「親友」の名は手島守之輔。竹原市出身で被爆死した画家だ。

 愛知県豊田市に生まれた荻は34年、東京美術学校(現東京芸術大)油画科に進学。手島も同じ年に入り、呉市出身の南薫造の教室でともに学んだ。

 気が合ったらしい。「反アカデミズム」「反官展」を掲げる新制作派をつくった猪熊の作風に感動し、二人で連れ立って自宅を訪ね、指導を仰ぐようになる。帝展審査員を務めるなど官展の主流にいながら、それを認めた南もおおらかだ。

 新制作派の展覧会で腕を競い合い、美校卒業後の41年、新作家賞を同時に受賞した。しかし、戦争の激化は二人の運命を分ける。

 結婚して東京・練馬にアトリエを構えた手島は43年、故郷に疎開。忠海中(現忠海高)で図画講師をしていた45年8月1日、臨時召集されて広島へ赴く。「あの日」のわずか5日前だった。

 父と妻が捜しに入り、病院で対面は果たせたが、同16日に亡くなった。31歳だった。

 荻は、徴兵検査の前に腸炎にかかり、兵役を免れた。「(手島が)今生きてたらいい仕事をするだろうな、すまないという気持ち」「十字架を背負っているような気がする」。95年に和光大教授を退任する際、学内報の取材に語っている。

 寺本館長は中国新聞の記者時代、南の足跡を調べるために荻に手紙を送った。その返信にも手島の死を悼む記述があった。「荻の一連の絵は、隠れた『原爆画』ともいえる」と語る。

 広島市西区の画家金本啓子さん(63)は新制作協会の会員。東京に暮らした70~80年代、仲間と荻のアトリエをしばしば訪ねた。荻は若手に慕われ、多くの後進を育てた。

 荻から手島の名を直接聞いたことはない。ただ、形や色をめぐる話にふと、「命懸けの絵かどうか」を問う厳しさが交じったという。

 荻の口癖は「何を、いかに、なぜ描くか」。金本さんは「荻先生の中では、その『なぜ』に手島さんがいた」とみる。

 竹原市東野町にある手島の実家で今月、荻が描いた手島の肖像画が確認された。これまで「自画像」と扱われてきたが、サインから荻の筆と分かった。交友の深さがあらためて浮かび上がった。

 遺品を管理する手島潤さん(61)は、手島の妹、篠(ささ)さん(2007年、85歳で死去)の長男。今回、荻と手島の縁を初めて知ったという。

 荻の中で、生涯のモチーフとして「生き続けた」手島。潤さんは「ようやく伯父の実像に触れた気がする」と話す。「被爆死した、悲劇の画家になる前の伯父。親友と青春を生きた手島守之輔に」(道面雅量)

<呉市立美術館>
 1982年開館。郷土ゆかりの作家を軸に幅広いコレクションを持ち、ルノワールの油彩、ロダンの彫刻も所蔵する。荻太郎の作品は、昨年秋の「南薫造と教え子たち」展で取り上げた縁もあり、7月に6点を寄贈により収集した。呉市幸町。

(2013年8月30日朝刊掲載)

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