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連載・特集

広島復興 幻の記録映画 監督遺族寄贈 川崎市で現存 平和の力 結集訴え

 被爆からの復興の実情を内外に伝えようと、広島県と広島市などが1948年から49年にかけ製作したが、所在不明となった記録映画が現存していた。「平和記念都市ひろしま」という。50年に米国で日系人らに上映していたのも分かった。川崎市市民ミュージアムが所蔵する。広島市は公開・活用に向け、川崎市やフィルム寄贈者との協議を始めた。

 「ひろしま」はモノクロ約20分。脚本・演出は戦前から記録映画の監督として知られた秋元憲氏(1906~99年)が手掛け、故徳川夢声がナレーターを務めている。

 広島駅前や本通り商店街などの光景に続き、公営住宅・公園・図書館などの復興計画案を模型や絵で紹介。原爆孤児らの暮らしぶりを収め、「ノー・モア・ヒロシマズ(略)平和の力が一つに結集された時、初めて広島は真の平和都市として全世界の砦(とりで)となり得るのだ」と訴える。

 また、「産業の再建」の字幕で始まる約10分のフィルムも残っていた。東洋工業(現マツダ)や宇品港の様子に続き、49年5月10日の広島平和記念都市建設法の衆院可決の場面を収める。

 映画は当初、「ノー・モア・ヒロシマズ」の題名で48年8月から撮影に入った。しかし、地元でも公開されず所在は不明のままに。製作協議文書や脚本案が81年に市役所で見つかったが、元建設委員会メンバーの「資金の問題と、連合国軍総司令部(GHQ)の検閲が原因」との証言から、映画は完成しなかったとみられた。

 以降、「幻の記録映画」といわれてきたが、秋元さんの三男翼(たすく)さん(69)=東京都=が川崎市に2006年、完成脚本や未編集フィルムとともに寄贈していた。翼さんは「広島で活用してもらえば父も喜ぶだろう」と協力の意向を示している。(編集委員・西本雅実)

貴重な歴史資料

 「平和記念都市ひろしま」を確認した広島市公文書館の中川利国館長の話 復興に立ち上がる広島の状況が鮮明に映像化され、歴史資料としても貴重だ。復興の礎となった平和記念都市建設法の衆院通過を見守る広島市・議会幹部らの映像があったのにも驚く。川崎市や秋元さんの協力を得て未編集フィルムのプリントもつくり、公開・活用したい。


占領期の広島記録映画現存 時代の波 埋もれた映像

 連合国軍総司令部(GHQ)による占領期の1948年から49年にかけて広島県、広島市、広島商工会議所でつくる広島建設委員会が製作した記録映画「平和記念都市ひろしま」。被爆の傷痕が広がる中、復興へと歩む様子を映像化していた。どのような狙いや経緯で作られ、埋もれていったのか。その軌跡を追う。(編集委員・西本雅実)

復興資金求め製作 国内上映はされず

 「映画“No More Hiroshimas”にかんする協議概要」という手書き文書が、広島市公文書館に残る。

 48年7月28日開かれ、浜井信三市長は、秋元憲監督も交えた席でこう唱えた。「世界のピースセンターを如何(いか)にして作るかと言う気持(ち)を世界人に起(こ)させるよう運んでいきたい」。秋元監督は、首都の復興を指揮していた石川栄耀(ひであき)氏の推薦だった。

米軍も撮影協力

 撮影開始を伝える「新県政」(48年12月刊)は「完成近い記録映画『ヒロシマ』」として脚本を掲載。「広島復興のための外資導入にも役立つようにと意識して企画」と製作の狙いを紹介している。

 広島市の復興計画は46年10月に正式決定されたが、財源がなく進まなかった。そこで米国への移民が全国最多だった県出身者に、48年から復興の支援金送付を呼び掛けていた。

 映画「ヒロシマ」は49年4月、皇太子さまの被爆地訪問も収め、米軍岩国航空隊の協力で空撮も実施。「『ヒロシマ』はこのほど検閲を終(わ)り」「広島で映写することに」(中国新聞50年2月3日付)なっていた。

 しかし、広島で上映された記録はなく、フィルムの所在はいつしか不明に。GHQの検閲などから映画は完成しなかったともいわれるようになった。

 ところが、米国では広島ゆかりの日系人に上映されていた。現地の邦字紙に記事が残る。当時の楠瀬常猪知事や浜井市長らはスイスで50年7月に開かれたMRA(道徳再武装)運動世界大会に招かれ、欧州経由で8月初め米国に着いた。

フィルム巻残す

 一行は8月5日にロサンゼルスで、19日はホノルルで「広島の実情を知らせる映画」を上映し、復興支援への謝意と協力を述べている。ハワイ広島戦災救済会だけで11万3千ドルを集めていた(布哇報知49年6月27日付)。

 なぜ国内では上映されなかったのか。

 広島市公文書館の中川利国館長は、50年8月6日の平和祭がGHQの圧力で直前に中止となったのと重ね合わせた。「平和都市建設がテーマの映画といえども時代の荒波の前に上映できなかったのだろう」。この年6月に起きた朝鮮戦争は激化し、米軍は原爆の再使用を公言していた。

 秋元監督の三男翼(たすく)さん(69)=東京都=は「父は『ひろしま』については何も語らなかったが、フィルム巻ごと最期まで枕元に置いていました」という。亡き父の思いをくみ、記録映像を収集・保存する川崎市へ寄贈し、市民ミュージアムが可燃性ネガを修復してプリント化した。

 「ノー・モア・ヒロシマズ」として製作が始まった広島の復興記録映画は、こうして今日に残ったのである。

 写真は、川崎市市民ミュージアム所蔵の映画「平和記念都市ひろしま」から。最下段は別の所蔵フィルム「産業の再建」から。

(2013年9月30日朝刊掲載)

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