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ヒストリー

ヒロシマの記録1993 5月


1993/5/3
米の「核被害者補償法」が複雑な申請手続きなどのため被害認定が進まず-。ニューヨーク・タイムズが特集記事。同法適用申請はネバダ核実験場関係が1,571人(認定348人)、ウラン採掘関係1,112人(同328人)
1993/5/4
東京電力福島第一原発で働き1988年に白血病のため31歳で死亡した会社員に、福島労基局富岡労基署が労災認定していたことが判明。原発被曝の労災認定は初
1993/5/5
米ワシントン・ポスト紙が核実験禁止継続を訴える長文の寄稿を掲載。翌6日、ニューヨーク・タイムズ紙が「今こそ核実験禁止を」と題し社説
1993/5/6
中部電力浜岡原発で働き1991年に白血病で死亡した元作業員の遺族が静岡県磐田労基署に労災申請。放射線被曝の労災申請は東京電力福島以外に関西電力大飯、高浜原発と九州電力玄海原発で働いた元作業員2人(うち1人死亡)が92年12月に神戸西労基署に申請
1993/5/8
府中市の「ジュノーの会」(甲斐等代表)が、ウクライナ・キエフ市でチェルノブイリ原発事故患者の治療に当たる2医師を広島大医学部第2外科などに招く。小児甲状腺がんの診断、治療法などを研修
1993/5/8
日本原水協などの「1993年国民平和大行進」が東京・夢の島の第五福竜丸展示館前を出発
1993/5/8
広島経済大で「ノエルベーカー卿記念レリーフ」の除幕式。石田記念体育館が完成し仮設置していた広島国際会議場から移す
1993/5/10
広島県原水禁がクリントン米大統領に核実験を再開しないよう求める要請文発送
1993/5/10
国連本部で核拡散防止条約(NPT)延長会議に向けての第1回準備委員会始まる。14日まで。脱退問題で注目の北朝鮮代表も出席
1993/5/11
国連安保理が北朝鮮に核拡散防止条約(NPT)脱退決定撤回を求める決議を賛成13、反対ゼロ、棄権2(中国、パキスタン)で採択
1993/5/11
山口市の山口県原爆被爆者福祉会館ゆだ苑が開館25周年。利用者は延べ41万8,600人
1993/5/11
北朝鮮の朴吉淵・国連大使が国連安保理で「日本は必要以上のプルトニウムを貯蔵して核兵器保有国になろうとしているのに、国際原子力機関(IAEA)は何らの行動も取らない」と批判
1993/5/12
世界保健機関(WHO)年次総会の委員会討議で、核兵器の使用が国際法違反かどうかの判断を国際司法裁判所に求める決議を採択。賛成73、反対31。14日、総会で採択。メキシコ、タイなどが核戦争防止国際医師会議(IPPNW)などの呼びかけにこたえ共同提案
1993/5/13
日本被団協のセミパラチンスク調査、交流代表団(団長、小西悟日本被団協事務局次長)が帰国報告。「核実験被害者補償法が成立したものの実施されていない。『原爆ブラブラ病』的な症状が多発」
1993/5/13
アスピン米国防長官が、旧ソ連の核ミサイルに対抗した「スターウォーズ」計画として知られる戦略防衛構想(SDI)の放棄を宣言。弾道ミサイル防衛機構(BMDO)に衣替えし、地域紛争への対応を重視へ
1993/5/14
科学技術庁が「1987年8月20日、ストロンチウム90を利用した原子力電池を運搬中の旧ソ連海軍ヘリコプターがサハリンの東側に墜落」と明らかに。放射能量は旧ソ連とロシアが極東海域に投棄してきた放射能の約20倍
1993/5/15
山口市被爆二世の会(寺中正樹代表)と同市被爆者の会(原田登会長)主催の「長崎平和公園原爆遺跡写真展」が山口市で始まる
1993/5/16
新潟に強制連行され、広島刑務所で服役中に被爆した中国山東省の張文彬さんが、検査入院のため48年ぶり広島入り。強制連行の中国人被爆者の来日は初。17日、被爆者健康手帳の交付申請。18日、広島市の河村病院に検査入院。20日、広島市が手帳交付
1993/5/17
クリントン大統領が、ニューメキシコ州ロスアラモス核研究所を訪れ、核実験再開を示唆
1993/5/18
ロシア外務省情報局長が、1993年末に期限切れとなる核実験停止について「米が停止を延長するなら、ロシアも停止を延長」と述べる
1993/5/19
原爆資料館の1992年度の入館者数は143万4,773人で、4年ぶりに150万人を割る。修学旅行生が減少
1993/5/19
平岡広島市長が被爆50周年に市が実施する記念事業の基本的な考え方を発表。「慰霊・援護」「継承・連帯」「創造」が3本柱
1993/5/19
広島市が民間被爆建物の保存を助成する「市被爆建物等保存・継承事業実施要項」と「補助金交付要項」を発表。爆心地から5キロ以内を対象に塀や門柱、樹木なども含め、3,000万円を上限に四分の三を補助。適用第1号は広島赤十字・原爆病院旧本館
1993/5/22
広島市の幟町国民学校被爆者合同慰霊祭がこの年で打ち切り。代表世話人の元幟町小校長斗桝正さんが3月に亡くなり、後継者がいなくなったため
1993/5/23
故マルセル・ジュノー博士の足跡を追う記録映画「第三の兵士」の撮影が広島市内で始まる。同市のビデオ製作会社TAプロが呼びかけ。挿入歌に1975年「広島平和音楽祭」の第1回歌詞一般公募に入賞した広島県東城高1年、山田愛毅さんの「戦争を知らないから」
1993/5/25
広島市でアニメ映画「かっ飛ばせ!ドリーマーズカープ誕生物語」の製作発表会。原爆に両親と弟を奪われながら野球に熱中し、カープ球団誕生に胸を躍らせた少年が主人公。原案中沢啓治氏、監督兼森義則さん。広島映画センター製作
1993/5/25
「ルーマニアが1980年代に原爆の開発計画を進め、プルトニウム生産に乗り出していた」-。ルーマニア通信が報道
1993/5/26
原爆症の認定申請を却下された長崎市の松谷英子さんが厚相を相手に処分の取り消しを求めた「長崎原爆松谷訴訟」(1988年9月提訴)で、長崎地裁の江口寛志裁判長が松谷さんの訴えを認め、国の却下処分を取り消す判決。爆心地から2キロ以遠で被爆、江口裁判長は「距離だけで放射線の影響を否定することは疑問」
1993/5/27
広島県被団協(市岡正憲理事長)の被爆者らが米の核実験再開反対を訴え、原爆慰霊碑前で座り込み
1993/5/28
広島市議会総務委員会が請願審議の参考にするため、プルトニウム問題で東大の鈴木篤之教授の利用賛成論を聴取。26日には反対論
1993/5/28
広島市が「ひろしま新世紀都市ビジョン懇談会」(座長、田中隆荘前広島大学長)の第3回会合。朴子アドジャパン社長が、広島市の「国際平和文化都市」の「平和」は「なぜ、広島に原爆が落とされたかという視点が欠けている。加害面を無視したアンフェアな平和運動だったのではないか」と指摘
1993/5/29
クリントン米大統領が、陸軍士官学校で「近く包括的な(核)実験禁止交渉を始める」と演説
1993/5/29
被爆50周年に向け平和都市広島の在り方を考えようと、広島県原爆被爆教職員の会の空辰男さん、広島県朝鮮人被爆者協議会の李実根会長が呼びかけ、広島平和文化センターの大牟田稔理事長、河合護郎前理事長、広島修道大の北西允教授、岡本三夫教授らが市内で懇談会
1993/5/31
元オーストラリア軍人、ビル・シェリフさんが撮影した1949、50年当時の広島、呉市の庶民生活を映す写真展が呉市役所で開催
1993/5/-- 
中国電力島根原子力発電所で「1982年にがんにかかったのは放射線被曝が原因」と島根労基署に44歳の男性が労災申請。同労基署は却下、男性は86年3月に白血病性悪性リンパ腫で死亡
1993/5/-- 
広島市の平和大通り東詰めの被爆者の森が気候や土壌が合わずピンチ。ニオイヒバ(青森)、ナンブアカマツ(岩手)、アスナロ(石川)などを植え替え
1993/5/-- 
ネバーアゲイン・キャンペーン(NAC)に参加した大阪府高石市の主婦山口由美子さんが平和行脚の体験を綴った「妻たちよ、大志を抱け-海外ボランティア報告から」を出版
1993/5/-- 
東広島市原爆資料保存推進協議会(五島正三会長)が、同市内在住の4人の被爆証言ビデオを製作
1993/5/-- 
ドイツ・エルトビレ市と広島市のバラ愛好者の交流を通じ、2年前にエ市から贈られた「シュタット・エルトビレ」が広島市の平和大通りに咲く
1993/5/-- 
クリントン政権の厚生省公民権局長に「被爆者友の会」元会長のデニス・ハヤシ氏

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