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ヒストリー

ヒロシマの記録1993 7月


1993/7/1
1996年春までに建て替えられる長崎国際文化会館の仮展示場が、同会館横の平和会館1階にオープン(長崎新聞7・2)
1993/7/1
峠三吉記念事業委員会(代表、丸屋博広島共立病院長)の依頼で、三次市の漫画家岩崎健二さんが原爆詩人峠三吉氏の没後40年を記念し劇画「風のように炎のように峠三吉」を完成。汐文社から発刊
1993/7/1
広島市議会が原爆遺跡保存の積極的対策を求める請願を採択
1993/7/1
エリツィン・ロシア大統領が「米など他の核兵器保有国が核実験を再開しない限り、核実験停止期間を延長」と言明
1993/7/1
韓国の市民グル-プが呼び掛け広島市で「核も原発もいらないアジア・フォーラムin広島」。マレーシア、インド、台湾、韓国の医師ら4人が参加
1993/7/2
原爆孤児支援活動に尽力した広島大名誉教授の中野清一氏が死去。88歳。1953年、「広島子どもを守る会」を結成、55年、「あゆみグループ」をつくり、65年に広島大を退官するまで、青春期を迎えた孤児たちを見守る
1993/7/2
広島県被団協が広島市の被爆50周年事業として、原爆死没者名簿の作成など6項目を提案
1993/7/3
クリントン米大統領が「1994年9月末まで核実験一時中止を継続」と正式発表。併せて96年10月1日実施を目標とした包括的核実験禁止条約(CTBT)実現のための交渉開始を呼び掛け。4日、外務省が歓迎談話
1993/7/4
仏が核実験停止継続を発表
1993/7/5
中国外務省スポークスマンが、米核実験凍結について「中国は従来から核実験を抑制してきた。5核保有国の中で実験数は最も少ない」と述べ、核実験を全面停止するには全核保有国の核兵器廃絶が前提との立場示す
1993/7/6
日本原水協などの国民平和大行進の広島-長崎コースが広島市の平和記念公園を出発
1993/7/7
クラフチュク・ウクライナ大統領が、旧ソ連から引き継いだ176基の大陸間弾道ミサイルなど戦略核兵器について、一時的との条件付きながら所有権を主張
1993/7/7
「旧ソ連が原子炉で推進力を得る航空機の開発を進め、1961年夏に飛行実験に成功していた」-。ロシア国防省機関紙が報道。試作機は「ラストチカ(つばめ)」。安全性の見地から最終的には計画放棄
1993/7/7
米会計検査院が「日本に30年間のプルトニウム利用を実質的に認めた日米原子力協定実施取り決め(包括同意)は、日本以外の国にも前例となり米議会はチェック機能を失いかねない」と警告する報告書を発表
1993/7/8
先進国首脳会議(東京サミット)が政治宣言を採択。核兵器削減、核拡散防止条約(NPT)無期限延長、北朝鮮のNPT脱退の即時撤回要求などを盛り込む
1993/7/8
日米企業がひそかに北方領土4島の1つ択捉島に原子力発電所を建設する構想をたて調査実施
1993/7/9
先進7カ国(G7)首脳とエリツィン・ロシア大統領が都内で「G7プラス1」会合。核廃棄物の海洋投棄中止を求めた宮沢首相に対し、エリツィン大統領は「支援が必要」
1993/7/10
原爆文学「黒い雨」などで知られる福山市加茂町出身の作家井伏鱒二(本名満寿二)氏が死去。95歳。1966年、文化勲章受章
1993/7/10
岩国市中央公民館が、山口放送の磯野恭子さんが一貫して製作してきた戦争、平和関係作品を17、24日と連続上映。「聞こえるよ母さんの声が~原爆の子百合子」「死者たちの遺言~回天に散った学徒兵の軌跡」「大地は知っている~中国へ残された婦人たち」「生きて生きて十九年~カネミ油症事件」「海鳴りのうた~朝鮮半島からきた炭坑夫たち」「いま淞花江に生きる~中国へ残された婦人たち」
1993/7/11
米軍備管理軍縮局と日本原子力研究所が、核物質管理のための国際自動遠隔監視システムを共同開発
1993/7/12
広島国際文化財団の第2回「アジア記者招請プロジェクト」の招請記者が決まる。中国、インドネシア、マレーシアの3カ国、4人
1993/7/12
広島市が募集した被爆50周年記念事業のアイデアは、61人と7団体から計123件
1993/7/13
広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会(八者協)が、厚生省などに被爆50周年での被爆者実態調査などを要望。被爆者援護法は「国家補償の精神に基づき、現行の原爆二法を再検討し、被爆者や遺家族の実態に即した画期的な援護対策の確立」との表現にとどまる
1993/7/14
1958年から62年にかけ車で国内各地、72年には世界27カ国35都市を単身で巡回し平和を訴えた広島市の大木斌さんが心筋梗塞のため死去。73歳
1993/7/14
広島市の原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の改修工事が終わり、入居始まる。大部屋をなくし最多でも4人部屋に、定員は250人から100人に
1993/7/14
「マンハッタン計画」で広島原爆のウランを製造した米テネシー州オークリッジ市に「世界平和の鐘」が設置されることになり、京都市の梵鐘鋳造メーカーで火入れ式。オークリッジ市在住の日本人、シゲコ・ウプルリさんが3年前に提案、元国立オークリッジ研究所長でマンハッタン計画に参加したアルビン・ワインバーグさんが実行委員長となり、「原爆投下にかかわった責任から」と、自ら投じた約2万ドルを含め両国の市民の募金活動で実現。火入れ式にはエドモンド・ネヒュー市長、ウプルリさんらが立ち会う。8月28日、名古屋港から米へ向け発送
1993/7/15
米の核・原子力開発都市のテネシー州オークリッジ市のエドモンド・ネヒュー夫妻が原爆資料館を見学。「(原爆投下は)よい決定ではなかったが、戦争終結のためにはやむを得ない部分があった」
1993/7/15
広島大原医研が世界の核被害への国際協力に積極的に対応するため、1994年度に全面改組する方針。1974年に付設された「原爆被災学術資料センター」を「情報センター」に改組など
1993/7/16
在米被爆者検診団が広島に帰着。過去最多の計549人が受診。被爆二世も78人、うち新たに被爆者と名乗り出た人は39人
1993/7/17
ロシア・ウラル地方の核閉鎖都市チェリャビンスク65でプルトニウム分離装置の一部が爆発し、少量のプルトニウムが漏れる
1993/7/19
第3回世界平和連帯都市市長会議に朝鮮半島から初参加の予定だった韓国大邱市の不参加が決まる
1993/7/19
1955年4月に開館した長崎国際文化会館の解体工事始まる。開館以来国内外から3,607万5,947人が訪れる。約3倍の広さになって1996年春に開館(長崎新聞7・20)
1993/7/19
米と北朝鮮の高官会談で、北朝鮮が国際原子力機関(IAEA)と核査察問題の協議を早期に再開し、米が北朝鮮の黒鉛型原子炉から軽水炉への転換を支援で合意
1993/7/20
広島市の原爆慰霊碑前での核実験抗議の座り込みが始まって20年。被爆者ら約80人が座り込み、核実験全面禁止と被爆者援護法実現を訴える。92歳の森滝市郎広島県被団協理事長も。座り込み回数は475回目、うち核実験抗議は454回
1993/7/22
ロシアのグラチョフ国防相が、「核のボタン」をシャポシニコフ前独立国家共同体(CIS)総司令官から接収し、エリツィン大統領と共同管理
1993/7/22
広島市公文書館が、1946年から47年にかけ広島市内を空から撮影などの元英軍人ジム・マンシー氏の写真13点を公表
1993/7/23
広島市で第20回広島平和音楽祭(広島テレビ主催)。台湾、フィリピン、中国から6組の歌手が出演、フィリピンは人気グループ、スモーキー・マウンテン
1993/7/23
スイス・ジュネーブで開かれる「第6回ピースメッセンジャー都市会議」に、広島市が原田浩原爆資料館長ら2人を派遣。広島を出発
1993/7/23
旧日本軍の生物戦部隊の罪科を問い続けている「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」(中国ハルビン市郊外)の韓館長が原爆資料館を見学
1993/7/23
パキスタンのベグ元陸軍参謀長が「パキスタンは1987年に核爆発を伴わない核兵器実験に成功」とロンドンで発行のウルドー語紙のインタビューに証言
1993/7/24
広島市の佐伯区内の6公民館が主催し、中区の被爆建物と原爆石碑を学ぶ「ズームin8・6」開く
1993/7/24
日本グラフィックデザイナー協会が平和や環境問題をテーマにした「JAGDA平和ポスター展1993-I’mhere」(ひろしま美術館、同協会、広島国際文化財団、中国新聞社主催)が、広島市内で始まる
1993/7/25
札幌市の市民団体「チェルノブイリへのかけはしプロジェクト」が中心になってベラルーシから82人の子供たちを保養夏休みで招く
1993/7/25
広島市の平和記念公園で「原爆の子の像」の碑前祭。5回目。市内15校の中学生や教師250人が参列
1993/7/25
金光教平和活動センター(熊田信道理事長)が、広島市で平和祈願広島集会
1993/7/25
二つの広島県被団協、同県生協連など8団体の「93市民平和行進」広島-長崎コースが平和記念公園から長崎へ出発
1993/7/26
日本被団協と日本生協連などが、全国で「被爆体験聞き書き・語り残し運動」の展開を決定し、語り部1万人を募集へ
1993/7/26
山口大ユネスコクラブの平和キャラバン隊が広島市に向け山口市を出発。21回目
1993/7/27
米国防総省が「ウクライナは旧ソ連の核廃棄を既に開始」と発表。28日、モロゾフ・ウクライナ国防相がワシントンで記者会見し「旧ソ連の戦略核廃棄は最高会議の承認を得ずに軍主導で着手」と言明
1993/7/27
日本被団協元事務局員の栗原淑江さんが中国新聞に「被爆者の自分史の勧め」と題し寄稿。毎月1回、「自分史通信ヒバクシャ」を発行
1993/7/27
総務庁の「韓国青年招へい事業」で来日中の30人が原爆資料館などを見学し韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝。被爆体験を聞く
1993/7/27
スペインの「ベンポスタ子ども共和国」の子供たちが原爆資料館下で人間ピラミッドをつくる
1993/7/28
平岡広島市長が「平和宣言」の骨子を発表。市長就任の1991年から2年続けて言及した「被爆者援護法」の字句が消える。「援護法となると、国内の被爆者に限定される。海外被爆者も包み込むような援護対策が必要」
1993/7/28
武藤嘉文外相がシンガポールで開かれた東南アジア諸国連合(ASEAN)拡大外相会議終了後、核拡散防止条約(NPT)の無期限延長支持を初めて示す
1993/7/28
「クリントン米政権が、核兵器製造に必要な物質の生産を世界的規模で禁止する新たな軍備管理計画を策定」-。ニューヨーク・タイムズが報道
1993/7/29
広島市が市レストハウスの地下室や裏階段などを、戦前に周辺で過ごした旧町民らに特別公開
1993/7/29
東広島市原爆資料保存推進協議会(五島正三会長)が、同市内の小中学生60人を招き広島市へ「平和学習バス」を走らせる。4回目
1993/7/29
広島県原水禁などでつくる「強制連行された中国人被爆者を広島に招く実行委員会」が、広島県山県郡加計町の安野発電所建設工事に強制連行され、広島刑務所で被爆した中国の呂学文さんと孟昭恩さんの2人を広島に招く。30日、広島市が被爆者健康手帳を交付
1993/7/30
笠岡市非核平和都市宣言啓発実行委員会(委員長、三好孝一市議)が主催し、広島市から笠岡市までリレーで走破するピースラン。4回目
1993/7/30
核廃絶を訴え約3年半、米から広島への平和行進を続けてきた日系四世のジュディー・今井さんが平岡広島市長を訪問
1993/7/31
中国新聞が8月6日を中心にした広島のテレビ各局の特別番組をまとめる。NHK=「ヒロシマに一番電車が走った」(6日)、「核実験・戦慄の記録~旧ソ連・秘密都市の40年」(7日)▽中国放送=「トンネルに風が吹いた日~強制連行・被爆中国人を追って」(6日)、「語り継ぐあの日」(同)▽広島テレビ=「プルトニウム元年3~隠される被ばく・ヒロシマ」(1日)、「被爆者とヒバクシャ」(6日)▽広島ホームテレビ=「チェルノブイリ小児病棟」(7月31日)、「残されるかヒロシマ~消えゆく被爆建物の中で」(6日)▽テレビ新広島=「ヒロシマ・心の旅路」(6日)
1993/7/31
大阪市原爆被害者の会が大阪市で「原爆犠牲者慰霊祭」
1993/7/-- 
広島県海田教育事務所管内の被爆教師らが被爆証言を集めた「原爆と私」を発刊
1993/7/-- 
鎌田定夫長崎総合科学大教授が編集し、広島、長崎両市の平和宣言の変遷をたどった「広島・長崎の平和宣言」が出版。平和文化社
1993/7/-- 
日本原子力研究所が核兵器解体に伴い発生するプルトニウムの新燃料化技術にめど。プルトニウムを燃え尽きさせ消滅が可能
1993/7/-- 
広島平和文化センターが平和図書シリーズ第9号として「平和学を創る-構想・歴史・課題」を刊行。著者は岡本三夫広島修道大教授
1993/7/-- 
広島で被爆した東京在住の著述業水田九八二郎さんが広島と長崎の原爆遺跡や碑を紹介した「ヒロシマ・ナガサキへの旅」を出版。中公文庫
1993/7/-- 
長崎原爆被災者協議会の山口仙二会長と本島長崎市長が被爆地長崎から若い世代に平和のメッセージを送る「ゆるす思想ゆるさぬ思想」を出版(長崎新聞7・17)
1993/7/-- 
広島、長崎の被爆者のメッセージを米市民に伝える民間の平和運動「ネバーアゲイン・キャンペーン」(NAC)の平和大使として長崎市の2人の女性ボランティア、看護婦の植木由香里さん(29)とホテル従業員の中ノ瀬真喜子さん(22)が決まる。1994年2月渡米、1年間活動(長崎新聞7・24)
1993/7/-- 
1945年、広島県山県郡八重町(現千代田町)の光明寺に集団疎開した広島市の幟町国民学校の児童が、疎開先での出来事を毎日記録した日誌が見つかる
1993/7/-- 
「原爆遺構を記録する会」(竹下芙美代表)が「原爆遺構長崎の記憶」を発刊(長崎新聞7・29)
1993/7/-- 
福山市の松岡泰三さんが自分で撮影した被爆数日後の広島市の写真を福山市の人権平和資料館に寄贈へ。17カット、21枚
1993/7/-- 
広島市のアマチュアカメラマン瀧口秀隆さんが、撮りためた被爆樹の写真を「廃墟に生きた樹木たち」として同市内で展示

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