×

ヒストリー

ヒロシマの記録1992 6月


1992/6/1
「1万ポンド(4.5トン)爆弾による原爆投下訓練は、中国地方では宇部だけでなく下関、呉、徳山、防府、岡山でも計画」と工藤洋三徳山高専教授が米軍資料から指摘。米軍の1万ポンド爆弾実験は1945年7月下旬から全国44カ所に49発投下、原爆投下部隊の第509混成航空群は7月29日に宇部市に3発投下
1992/6/1
米下院軍事委員会のレス・アスピン委員長が「核兵器拡散を防ぐため、米は直ちに核実験を中止すべき」と演説
1992/6/1
被爆した旧広島地方気象台を改修し、全国初の気象博物館がオープン。爆風でガラス片が突き刺さった壁を保存、被爆日の当番日誌も展示
1992/6/3
北朝鮮を訪れた朝鮮人被爆者協議会の李実根会長が「渡日治療のため長崎市へ2人の被爆者の招待がほぼ決まり、現地の被爆者組織づくりに見通し」と表明
1992/6/3
放射線被曝者医療国際協力推進協議会(放医協)の編集で広島の被爆者医療の蓄積を集大成した「原爆放射線の人体影響1992」が出版
1992/6/4
1991年度に広島で被爆体験を聞いた修学旅行生は23万1,000人で、前年度を1万4,000人下回る。広島平和文化センターが集計
1992/6/4
米下院が、米の核実験を1年間停止する「核実験停止法案」を賛成多数で可決。民主党マイク・コペツキー議員らが提案
1992/6/5
ロシアのグラチョフ国防相が、ロシアなど独立国家共同体(CIS)6カ国の安全は「ロシアの核の傘によって保障」と述べる
1992/6/6
広島平和美術協会の四国五郎氏らが原爆養護ホーム舟入むつみ園で入居被爆者の似顔絵描き。1970年から毎年続く
1992/6/7
長崎市で原爆後障害研究会。「被爆者大腸がん検診の結果、女性のがん発見率は非被爆者に比べ高い傾向」と広島原対協の前田亮副部長が報告
1992/6/7
日本被団協が総会を開き、1995年に「被爆問題国際シンポジウム」の開催決める。代表理事の迫田正利広島県被団協事務局次長が退任し、後任の瀬戸高行同県被団協副理事長を新たに選ぶ
1992/6/8
日本赤十字社などが進めるチェルノブイリ原発事故被災者救援事業の1992年度招請者10人が広島入り
1992/6/8
第5回ピースメッセンジャー都市会議がモロッコ・マラケシュ市で開幕。広島平和文化センターの大牟田稔理事長らが出席
1992/6/8
日本被団協が原爆被爆者等援護法案の衆院での審議入りを衆院議員全員に要請
1992/6/8
広島大の小林文男教授グループが、広島大生を対象に1991年の平岡広島市長の平和宣言について意識調査。「アジアへの加害を謝罪した点は評価できても、長崎市に比べ抽象的」との結果
1992/6/9
宮沢首相が広島市で開催の国連軍縮広島会議への出席を断念。国会日程のため
1992/6/9
在韓被爆者の救援に努めた故河村虎太郎氏の遺稿集「医療と信仰」が、遺族の手で出版
1992/6/10
国連軍縮広島会議の参加者決まる。海外22カ国31人と国内38人の計69人
1992/6/11
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)のロシア・ボルゴグラード支部のメンバーが原爆資料館を見学、慰霊碑に献花
1992/6/12
被爆直後、広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)で治療を受けた被爆者や当時の医師、看護婦らが手記集「いのちの塔」を出版
1992/6/13
日本平和教育研究協議会(日平研)、広島平和教育研究所が主催し、広島市で全国平和教育シンポジウム第20回記念集会。300人が参加。14日も
1992/6/13
広島合唱団がカンタータ「この灯を永遠に」を合唱。「この灯-」は福岡県星野村の山本達雄さんの「平和の火」を東京の作曲家安藤由布樹さんが作詞、作曲
1992/6/14
戦時中、広島県山県郡加計町の安野水力発電所建設工事に動員され、広島市内で被爆したと証言する中国青島市の徐立伝さんが広島の市民グループを通じ被爆者健康手帳の取得と渡日治療を訴え
1992/6/15
国連軍縮広島会議の初日、米ハーバード大講師のフィリップ・ゼリコー氏が「広島、長崎への原爆投下は200万人以上の日本人の命を救ったのではないか。(戦争継続による)飢餓や沖縄戦を思えばそういう考え方もできる」と発言。被爆者の批判で16日からの会議を欠席
1992/6/15
リフキンド英国防相が「海軍の艦船と航空機への戦術核搭載を停止」と発表。1991年11月の北大西洋条約機構(NATO)決定に従う
1992/6/15
国連軍縮室(プロブスラブ・ダビニッチ室長)が主催し、被爆地で初の国連軍縮広島会議が広島国際会議場で開幕。「大量破壊兵器の不拡散及びアジア・太平洋における信頼醸成措置」がテーマ。18日まで。最終的には20カ国61人の政府関係者、学者、非政府組織代表らが参加。日本政府を代表し堂ノ脇光朗軍備管理・軍縮担当大使が演説。平岡広島市長は、核保有国に核弾頭数などの実態公表を求める。主な参加者はステファン・ハンマー米軍備管理軍縮庁次官、ロルフ・イケウス国連特別委員会委員長ら。南北朝鮮代表も参加
1992/6/16
訪米したエリツィン・ロシア大統領とブッシュ米大統領との首脳会談で、双方の戦略核兵器の弾頭数を2003年までに各3,000~3,500個に削減、大型ICBMと多弾頭ICBMを全廃する核軍縮計画で合意。実現すれば現保有弾頭数の三分の一に
1992/6/17
広島市の原爆慰霊碑前で、被爆者らがゼリコー氏の発言に抗議の座り込み
1992/6/17
米上院で、核実験の1年間停止法案の支持議員が過半数の51人に
1992/6/17
広島、長崎への2度の原爆投下機に搭乗した唯一の米軍兵士ジェイコブ・ビーザー氏が死去。71歳。戦後一貫して「原爆投下は戦争終結を早め、両国の犠牲者を少なくした」と主張
1992/6/18
広島市などが主催し広島国際会議場で公開シンポジウム「核軍縮と90年代における軍備管理・軍縮の課題」。プロブスラブ・ダビニッチ国連軍縮室長ら5カ国5人が出席。シンポに先立ち広島平和文化センターの高橋昭博事業部長と池田精子さんが被爆体験を話す
1992/6/18
宮沢首相が参院決算委で、被爆者援護法に「制定には賛成していない。原爆二法により保健、医療、福祉の充実が大事」と否定的見解。賛同署名についても「私自身は署名したことはない」
1992/6/18
マーシャル諸島共和国の核損害賠償裁判所(NCT)が、米核実験による被曝者379人に総額1,400万ドル(約18億円)強の補償を認定
1992/6/19
衆院本会議で原爆被爆者等援護法案が継続審議に
1992/6/19
広島市内の被爆者らで結成した「レストハウス(元大正屋呉服店)の保存を考える会」と「原爆遺跡保存運動懇談会」(座長、後藤陽一広島大名誉教授)が広島市に平和記念公園内のレストハウス保存を要望
1992/6/19
フランス国民議会(下院)が核拡散防止条約(NPT)調印を正式承認
1992/6/19
米がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表
1992/6/20
平岡広島市長が米核実験に抗議文送る。長崎市も。長崎市の核実験抗議は1970年以来、500回目。22日、被爆者らが原爆慰霊碑前などで座り込み
1992/6/20
修学旅行で広島を訪れた東京・小平市の市立小平第6中の3年生215人が、原爆慰霊碑前でカンタータ「土の歌」の第7楽章を合唱
1992/6/21
広島市で「8・5反戦・反核広島集会実行委員会」(松江澄代表)などが主催し公開シンポジウム「出ていく自衛隊、入ってくるプルトニウム」開く
1992/6/22
原爆犠牲者が橋のたもとで火葬された広島市安佐南区の昭和橋の保存を訴え、地元婦人団体が広島市議会に請願
1992/6/22
原爆遺跡保存運動懇談会が女優の吉永小百合さん、黒柳徹子さん、児童文学者の松谷みよ子さんら著名人21人の署名を集め、市にコピーを提出
1992/6/23
米がネバダで地下核実験。エネルギー省発表
1992/6/24
平岡広島市長が米核実験に抗議文。26日、広島県被団協の森滝市郎理事長らが原爆慰霊碑前で座り込み
1992/6/25
長崎市で放影研が理事会。広島市南区比治山公園にある研究所の移転新築を正式に承認。移転先は中区千田町3丁目、広島大工学部跡地を暗黙了解
1992/6/25
広島県原水禁が、核実験の全面禁止に向けた積極的な行動を求める要請文を宮沢首相に郵送
1992/6/25
広島県加計町の安野発電所建設に動員され、広島市内で被爆したという中国人労働者を支援する会「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」が発足
1992/6/26
チェイニー国防長官、ベーカー国務長官など米有力閣僚が相次ぎ核実験継続発言。停止派議員との間で論争に
1992/6/27
広島県被団協が、1991年9月に佐久間澄理事長が死去してから代行を務めていた市岡正憲副理事長の理事長就任を決定。広島県神石郡神石町出身。教員時代に入市被爆
1992/6/27
公開シンポジウム「原爆遺跡・被爆遺構を考える」(長崎総合科学大・長崎平和文化研究所主催)が長崎市内で開く(長崎新聞6・28)
1992/6/29
赤レンガの被爆建物、広島市内の旧陸軍被服支廠を文化発信基地として保存するよう、市民グループが所有者の県に提案書提出
1992/6/30
改装前の原爆資料館に展示されていた被爆直後の広島市の市街地を再現した2代目パノラマが、市立本川小学校の平和資料館で再活用。1969年の製作
1992/6/-- 
「ひろしま・祈りの石の会」(犬養智子会長)がアイルランド、ポーランド、オーストリアの各大統領に「祈りの石」贈呈へ。同会発起人は広島県佐伯郡大野町の王舎城美術宝物館の喜多祐士館長
1992/6/-- 
ロシアの軍事閉鎖都市チェリャビンスク65で、1957年の惨事以外にも廃棄物のたれ流しが明らかに。計50万人が被曝し1949年以降、がんなどで約8,000人死亡
1992/6/-- 
広島市の平和記念公園東側、元安橋東詰めに花時計を移設。1959年に中国シチズン販売が寄贈、平和大橋のたもとに設置。その後、73年に広島国際会議場南側に移し、86年に撤去していた
1992/6/-- 
自民党が、参院で可決後、衆院に送付された原爆被爆者等援護法案に反対の立場。日本被団協の賛同署名に応じないよう同党全国会議員に文書
1992/6/-- 
神奈川県藤沢市の主婦、石浜みかるさんが、治安維持法違反で広島刑務所に服役中に被爆した父の故義則さんの手記をもとに小説「あの戦争のなかにぼくもいた」を出版
1992/6/-- 
山口県原爆被爆者福祉会館ゆだ苑が理事会を開き、1991年9月に交通事故で亡くなった永松初馬理事長の後任に山口大名誉教授の安部一成氏を選ぶ
1992/6/-- 
広島県山県郡千代田町のニューヨーク市立大(CUNY)リーマン広島校のジョージ・ローサー教授のもとにニューヨークの児童から千羽づる届く
1992/6/-- 
作家の大浦ふみ子さんがルポルタージュ「長崎原爆松谷訴訟」を出版
1992/6/-- 
長崎の被爆者と東京の映画監督の2人の同姓同名の金高謙二さんが、協力してドキュメンタリー反核映画「ある同姓同名者からの手紙」を製作
1992/6/-- 
広島市の平和記念公園で2年前に敷き詰めた御影石の石畳がバス乗り入れで破損。修復へ
1992/6/-- 
米でダニエル・エルズバーグ氏らが、核兵器の大幅削減や核実験完全禁止をめざし「マンハッタン計画2」を展開
1992/6/-- 
広島市の医師原田東岷氏が作詞した合唱曲「世界の命=広島の心」につけるオーケストラ曲が、作曲者の藤掛広幸さんの手で完成
1992/6/-- 
米サンフランシスコで活動するプロジェクト・ゲン(アラン・グリーソン代表)が、7月3日からアニメ「はだしのゲン」を全米上映。漫画「はだしのゲン」の完結編第4巻も出版へ
1992/6/-- 
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)日本支部の吉田恭子さんが米ボストンのIPPNW本部で日本人スタッフとして勤務へ
1992/6/-- 
「平和公園の原爆遺構を保存する会」(竹下芙美代表)が、旧浦上刑務支所遺構の保存、復元を求め全国規模で署名、募金活動へ(長崎新聞6・9、7・12)
1992/6/-- 
被爆者の証言を記録してきた東京在住の元放送記者伊藤明彦さんが14人分のテープ500セットを全国の高校に配布へ

年別アーカイブ