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ヒストリー

ヒロシマの記録1992 7月


1992/7/1
山口県原爆被害者団体協議会が総会を開き、健康上の理由から辞意を表明していた竹内一作会長の後任に内田作治新会長を決める
1992/7/2
北大西洋条約機構(NATO)が「米は欧州から地上配備と海洋配備の全戦術核の撤去を完了」と発表。核砲弾、戦術核ミサイルと核爆雷。NATO内に残るのは空中発射戦術核だけに
1992/7/3
「谷本清平和賞」の第5回受賞者に前広島女子大学長の今堀誠二氏が決まる
1992/7/3
横須賀市がブッシュ米大統領の戦術核撤去完了の宣言に伴い、政府に対し行ってきた米艦船の核兵器搭載確認の取りやめを決める
1992/7/3
米通信社UPIが「過去1年半の核実験のほとんどは新兵器開発が目的」との政府文書を入手
1992/7/4
広島市現代美術館に「ヒロシマと現代美術」展示室がオープン。丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」(1973年)やヘンリー・ムーアの彫刻「アトム・ピース」を展示
1992/7/4
カトリック修道会イエズス会(本部ローマ)のペーターハンス・コルベンバッハ総会長が原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学
1992/7/6
カザフ共和国政府がセミパラチンスク核実験場周辺の広範な地域を環境汚染地域に指定
1992/7/8
日本被団協が、米の原爆投下責任を問う方策を探る特別委員会(伊東壮代表委員、14人)設置を発表
1992/7/8
広島原爆投下の直後、現地入りして新型爆弾を原爆と確認した木村毅一京大名誉教授が死去。88歳。中性子の測定から原爆と確認、9月の第2次調査では枕崎台風で宿舎が山津波に襲われたが、危うく助かる。自伝で「アメリカが既に原爆の研究を始めたことは知っていたが、これほど早く成功するとは思わなかった」
1992/7/8
広島市の平和記念館建て替え起工式。設計、丹下健三都市・建築設計研究所。総事業費69億円
1992/7/8
被爆者援護法制定を求める決議や意見書を採択した地方議会が6月中に2,208議会に達し、全国の三分の二を超える。日本被団協まとめ
1992/7/10
厚生省の原爆死没者慰霊等施設基本構想懇談会(座長、森亘元東大学長)の専門委員会が、国が被爆50周年をめどに建設する慰霊施設について、全国約31万人の原爆死没者のデータベース構築などを盛り込んだ基本構想を大筋で了承。(1)慰霊・平和祈念(2)資料情報の収集(3)国際協力・交流-の3機能
1992/7/11
1951年7月に京都市のデパートで開いた「総合原爆展」参加者が京都市内に集まり「原爆展を掘り起こす会」開催。当時の京大生が中心
1992/7/11
韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移設問題で、在日本大韓民国居留民団広島県地方本部の沈東烈団長と在日本朝鮮人総連合会広島県本部の梁寿男委員長が、平岡広島市長との個別会談を通じ「南北統一碑」を公園内に新たに建立することで合意。「韓国人」「朝鮮人」を縦書きで左右2列に並べ以下「原爆犠牲者慰霊碑」とする
1992/7/11
マレーシアの日系合弁化学企業ARE社を相手取った付近の住民の公害訴訟で、現地の高裁が放射性有毒物質の撤去や生産禁止などを命ずる判決
1992/7/12
広島市内で10年ぶりに「原爆遺跡のスケッチめぐり」。広島県美術会議の下村仁一氏らが呼びかけ 1992/7/12
軍都広島の歴史を反省し、アジア・太平洋に与えた犠牲を心に刻む碑を建てようと、広島市内で被爆者や宗教者らが建立委員会結成準備会
1992/7/12
1945年に建物強制疎開で立ち退きに遭い、そのまま原爆で消えた広島市の旧木挽町(現中島町)の戸別地図を旧町民が6年がかりで復元
1992/7/13
ブッシュ米大統領が核兵器用プルトニウム、高濃縮ウランの製造停止を正式発表。プルトニウムは1988年以来、高濃縮ウランは30年近く製造していない
1992/7/13
広島国際文化財団(山本朗理事長)が主催する「第1回アジア記者招請プロジェクト」の招請記者5人が決まる。韓国、フィリピン、インドの新聞、雑誌記者とタイのテレビ放送記者、カメラマン
1992/7/14
本島等長崎市長が平和宣言の骨子を、式典前に初めて市議会代表者会議で提示。起草委員会は懸念と疑問(長崎新聞7・15、7・16)
1992/7/14
広島市中央図書館で原水爆被害に関する海外の書籍などを集めた「海外の被爆文献資料展」始まる。1945年から50年代が中心で出版物35点と翻訳10点
1992/7/14
徳仁皇太子が7月15日に広島市で開かれる第28回献血運動推進全国大会に出席のため広島入り。原爆慰霊碑に参拝、広島赤十字・原爆病院を慰問。広島訪問は1981年7月以来、11年ぶり
1992/7/14
中国新聞が「獄中被爆強制連行中国人の証言」の連載を始める
1992/7/15
広島市の平和記念公園内の原爆供養塔に眠る遺骨のうち氏名など手がかりがありながら引き取り手のない938柱を記載した「原爆供養塔納骨名簿」の公開始まる。長崎の143柱の氏名が載った「長崎原爆殉難無縁遺骨名簿」も併せ掲示
1992/7/15
動力炉・核燃料開発事業団が米の放射能汚染除去に技術協力決める。全米17州で推定3,000カ所が汚染され、米政府は年間5,000億円以上を投入し除去中
1992/7/17
長崎市の姉妹都市、米セントポール市が長崎市に寄贈する平和モニュメント「コンスタレーション・アース(地球星座)」が長崎市に着き、7月21日公開。米からの寄贈は初。除幕式は10月10日(長崎新聞7・22、10・11)
1992/7/20
佐々木禎子さんの生涯と原爆の子の像の建設までを描くアニメーション映画製作のため、被爆者らが「広島ピース・アニメの会」を結成。仏のミホ・シボさんらの運動を支援
1992/7/20
中国新聞が1989年5月から1年間、連載した「世界のヒバクシャ」の英語版が出版。講談社インターナショナル
1992/7/21
ニューヨークの「広島『原爆の子』記念財団」(内田仁理事長)が募集した第2回英文「原爆の子」読書感想文コンクールで米高校生2人が入賞
1992/7/21
韓国人被爆者問題を韓国人作家、映画監督の目でとらえる韓国映画「ジャズバー広島」広島での撮影が終わる。原作、蔡煕文氏、監督、姜求沢氏
1992/7/21
ドイツと米の青少年が広島市を訪れヒロシマ学習。ハノーバー青少年使節19人、マサチューセッツ州YMCAの10人
1992/7/21
広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会(八者協)が、被爆者年金制度の創設、痴呆性老人の介護措置費など21項目を国に要望
1992/7/21
広島市の書道家安達春汀さんが被爆クスノキに刻字した「飛翔」が第5回瀬戸大橋書道展で総理大臣賞。クスノキは戦前、広島市中心部の国泰寺にあり樹齢300年と言われた大木
1992/7/22
ソウルで核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の第3回アジア太平洋地域会議開幕。日本からは福原照明IPPNW日本支部長ら74人が出席。開会式で平岡広島市長が基調演説
1992/7/22
広島平和文化センターの「被爆者証言ビデオ」1992年度分が完成。耳の不自由な被爆者や原爆投下の2日後、科学者らを広島まで空輸した神奈川県藤沢市の元パイロット水間博志さんら50人が証言。計371人、350本に
1992/7/23
米の民間平和団体「社会的責任を果たす医師の会」の調査で、米国民の72%が核実験の停止に賛成
1992/7/25
原爆養護ホーム「倉掛のぞみ園」で、イラストレーターの黒田征太郎さんが入所のお年寄りらと玄関ホールの壁画に色づけ
1992/7/25
広島市で丸木位里展とJAGDA平和ポスター展開幕
1992/7/25
呉市で「朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える全国交流集会」。広島陸軍輸送統制部中部8876部隊所属の朝鮮人125人が宇品で被爆し、救援に尽力した事実など明らかに
1992/7/25
「アジア記者招請プロジェクト」の第1陣4人が広島市入り。残る1人も26日に到着
1992/7/26
山口大ユネスコクラブの「第20回平和キャラバン」が山口市を出発。1991年は89年に続いて2度目の中止に追い込まれていた
1992/7/27
ロシア・オブニンスク市で世界保健機関(WHO)が開く「チェルノブイリ原発事故の健康影響についての国際プログラム」専門家会議に広島大原医研の蔵本淳所長が出席
1992/7/27
放射線被曝者医療国際協力推進協議会(放医協)が、海外から6人の研修医受け入れ決める
1992/7/27
京都市で第14回国際平和研究学会が開幕。31日まで。参加者のうちの19カ国36人が8月1日、広島市を訪れ原爆資料館を見学
1992/7/28
宮沢首相が広島市の平和記念式典への出席を国会の都合で断念
1992/7/29
広島市の市民グループ「原爆遺跡保存運動懇談会」が、広島市の被爆建物等継承方策検討委員会(委員長、庄野直美広島女学院大名誉教授)の提言に「原爆遺跡保存条例」の制定を明記するよう要望書を提出
1992/7/29
広島市の仏師、渡部照範さんが被爆クスノキ(国泰寺)に仏像を彫り広島平和記念館に寄贈
1992/7/29
アジア諸国のヒロシマ像を探るため広島市教委が14カ国・地域の教科書265冊を入手
1992/7/29
広島市公文書館が「占領下の原爆災害調査展」。都築正男博士、陸軍軍医学校の弓野勲少佐らの資料を展示。被爆直後の調査資料や情報提供を呼び掛け
1992/7/29
呉市で旧軍港市振興協議会の正副会長会議。核兵器廃絶を決議
1992/7/29
原水禁国民会議が被爆47周年原水禁世界大会に北朝鮮から2人の被爆者が参加と発表。うち朴文淑さんは被爆者健康手帳の交付申請へ
1992/7/30
広島市の8月6日の平和祈念式で「平和の鐘」をつく遺族代表が決まる。19歳と25歳の若者
1992/7/31
高校生らのピース・ボイス運動のメンバーが、国連とユニセフ本部に平和を願うメッセージを持参。フォークシンガーの黒坂正文さんが提唱
1992/7/31
戦争末期、三菱重工業長崎造船所で徴用工として働き、被爆した韓国在住の金順吉さんが日本政府と三菱重工業を相手に1,000万円の慰謝料と当時の未払い賃金支払いを求める訴訟を長崎地裁に起こす
1992/7/31
原爆で3人の子を失った母の悲しみを綴った広島市の故横山雪さんの手紙が、東京の演劇人を中心に反響を呼びスライド劇「手紙の波紋」に。広島市で初上演
1992/7/-- 
ニューヨークの小学校児童らが折った折りづる平和便が広島へ向け飛び立つ。ロングアイランドのコバート・アベニュー小
1992/7/-- 
原爆死没者名簿の記帳者に広島市中区役所の池亀和子さん。1985年と90年に続き3回目
1992/7/-- 
鳥取県立倉吉農高で被爆アオギリの二世が順調に育つ
1992/7/-- 
大阪国際平和センターで「核兵器のない世界を展」開く。8月30日まで
1992/7/-- 
詩人の栗原貞子さんが最近10年間に新聞や雑誌に書いたエッセーをまとめ「問われるヒロシマ」出版
1992/7/-- 
東広島市で働くペルー人のビクトル・ラサルテさんが「佐々木禎子に捧げる詩広島1945年8月6日8時15分」と題すスペイン語の長詩を書く
1992/7/-- 
4年がかりで「日本赤十字社広島県支部百年史」が完成し、出版

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