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ヒストリー

ヒロシマの記録1991 8月


1991/8/1
ソ連ノバヤゼムリャ核実験場に反対しているコミ自治共和国平和闘争委員会のワレンチン・イワノフさんらが初めて広島へ
1991/8/1
韓国外務省は、北朝鮮が国際原子力機関(IAEA)の核査察を受け入れるとの前提で、北朝鮮提案の朝鮮半島非核化について話し合う用意があると声明
1991/8/1
広島で被爆した三菱重工業元徴用工でつくる「韓国人原爆被害徴用者同志会」の金春植会長ら8人が東京の三菱重工業本社と外務省で初の補償交渉。三菱重工、外務省とも「解決済み」との態度で平行線
1991/8/1
核禁会議が広島市で平和集会。150人が参加し湾岸戦争後の平和運動の在り方を討議
1991/8/1
広島市の原爆資料館が改装オープン。被爆体験の風化が問われる中、戦後世代向けに映像や模型を駆使してビジュアル化図る。初日の入館者は1990年8月1日を2,000人上回る5,400人
1991/8/2
反戦画家の四国五郎さんが広島市内で初の個展。8日まで
1991/8/2
オーストラリア在住の被爆者で絵本作家の森本順子さんが、広島ニューライオンズクラブを通じて広島市に著書の英文絵本「MYHIROSHIMA」を贈る
1991/8/2
大きな十字架を背負い世界行脚している米人作家アーサー・ブレセットさんが広島市を訪問
1991/8/2
広島市が1988年度から3年がかりで行った第4期原爆被爆者動態調査の概要を発表。1945年末までの早期死亡者は9万0,104人で、第3期調査(1985年から3年)より1万3,000人増。被爆死者総数は22万1,407人で、第3期調査よりも3万1,926人増える
1991/8/2
原子力委員会の核燃料リサイクル専門部会が1990年代半ばから二十一世紀初頭にかけて軽水炉型の原子力発電所でプルトニウムを燃やす「プルサーマル」利用の推進を盛り込んだ核燃料リサイクル計画報告書をまとめる
1991/8/2
日本原水協の原水爆禁止1991年世界大会国際会議が広島市の広島厚生年金会館で開幕。海外代表55人を含む250人が参加。4日まで
1991/8/2
笠岡市職労の「ピース・ラン91」が広島市の平和記念公園をスタート。3日到着
1991/8/2
女優の堀絢子さんが、父親が被爆死した三次市で反戦一人芝居「朝ちゃん」「そしてトンキーも死んだ」を公演▽劇団「はぐるま座」が広島市で峠三吉の「原爆詩集」を基にした音楽詩劇「夏の約束」公演
1991/8/2
広島赤十字・原爆病院が1990年度の原爆医療部門の診療概況を発表。入院、死亡者は89年を下回るが、疾病は悪性腫瘍が開院以来最高になり、死因のトップ
1991/8/2
広島市のワールド・フレンドシップ・センター(森下弘理事長)が、浜井道子さんら3人を米に派遣。1カ月間、東部を中心に被爆の実相や日本文化をスライドや写真で紹介し、宗教者や平和団体と交流 1991/8/3
世界テレビ映像祭が広島国際会議場で開幕。「地球の時代・平和の創造湾岸戦争の中から」をテーマに海外7カ国の代表10人を含むテレビ関係者ら160人が報道の在り方を考える
1991/8/3
原水禁国民会議の非核平和行進と日本山妙法寺の平和行脚がそれぞれ広島市の平和記念公園に到着
1991/8/3
日本の戦争責任を問う「戦後補償国際フォーラム」が東京で開催。在韓被爆者らが補償と謝罪を訴え
1991/8/3
創価学会インタナショナル(SGI)、国連軍縮局などが広島市で「戦争と平和展」開く。チェルノブイリ原発事故の放射能除去作業にあたった技術将校の日誌など公開
1991/8/4
反核団体「ネバダ・セミパラチンスク運動」(NSM)のガリーナ・クゼンバーエバ副議長が「核実験場があるソ連カザフ共和国で白血病少女の死をきっかけに、同じ病気で苦しむ子供を救おうと募金活動を展開する『ソ連版折りづる運動』が広がっている」と語る
1991/8/4
旧日本軍に徴兵され広島で被爆した金基栢さんら韓国人男性5人が治療のため広島入り。在韓被爆者渡日治療広島委員会(河村譲会長)の招き。5日、日本人の元上官が付き添い広島市役所で被爆者健康手帳を申請
1991/8/4
日本原水協の国民平和大行進が広島市に到着
1991/8/4
原水禁国民会議の被爆46周年原水爆禁止世界大会広島大会が広島市の中央公園で始まる。海外代表29人を含む8,000人が参加。核実験場に近いセミパラチンスク市の少女スベトラーナ・カザーコバさんが作曲した「ヒバクシャへの鎮魂の歌」(下松市の堀和彦さん作詞)を演奏
1991/8/5
「原爆の子」英語版感想文コンテストで入賞した米高校生2人、ローラ・ジョンソンさんとラミーン・ヤザーリ君が広島市を訪問。「原爆の子」執筆者でつくる「きょう竹会」のメンバーと対面
1991/8/5
連合(日本労働組合総連合会)が「連合・平和会議-ヒロシマ」を広島市で開く。主要単産の代表50人が参加。今後の運動の基本理念となる平和宣言発表。山岸章会長が「2年後をめどに平和運動を自立」と表明
1991/8/5
原水禁国民会議の被爆46周年原水爆禁止世界大会広島大会2日目。非核自治体の交流を促すため地方議員レベルの全国ネットワークの結成を提案
1991/8/5
全国の児童、生徒のカンパで建立された「原爆犠牲ヒロシマの碑」(広島市)で10回目の碑前祭。米、仏の高校生も一緒に元安川で被爆瓦を発掘
1991/8/5
日赤長崎原爆病院が1990年度の診療概況をまとめる。入院被爆者数に占めるがん患者の比率は29.2%と過去最高
1991/8/5
徳山市の学習塾「無限塾」の塾生が広島市の平和祈念式をめざす「ヒロシマピースウオーク」を実施 1991/8/5
日本被団協が「ノーモア・ヒバクシャ国民のつどい」広島集会を開く。150人が参加
1991/8/5
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)ソ連支部のリュボフ・コレニスコバ医師が原水禁国民会議の世界大会広島大会で「セミパラチンスク核実験場付近で『黄色い子供』の出産が増えている」と報告。放射線と農薬など化学物質の複合汚染の可能性も
1991/8/5
中国新聞が、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の核実験被害、環境影響の調査報告書「大気と大地の放射能」(原題・RADIOACTIVEHEAVENANDEARTH)を連載
1991/8/6
平岡広島市長が就任初の平和宣言。「人類は今日までかろうじて核戦争を回避してきたが、無謀な核実験の続行や原子力発電所の事故などで、放射線被害が世界各地に広がりつつある。もうこれ以上、被爆者を増やしてはならない。ヒロシマは今、新たにチェルノブイリ原発事故の被害者らに医療面からの援助を始めたが、ヒバクシャは膨大な数に上っている。ヒロシマは国際的な救援を世界に訴え、その先頭に立ちたいと思う。日本はかつての植民地支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人々に大きな苦しみと悲しみを与えた。私たちは、そのことを申し訳なく思う。今年は太平洋戦争が始まって50年に当たる。私たちは、真珠湾攻撃から広島・長崎への原爆投下に至る、この戦争の惨禍を記憶し続けながら、世界平和を改めて考えたい。世界は冷戦後の新世界秩序の模索を始めている。核軍縮にも大きな進展がみられた。平和への重い扉は少しずつ開き始めた。ヒロシマは世界に訴える。核実験を直ちに全面禁止し、核兵器を1日も早く廃絶しよう。戦争のむなしさと愚かさ、平和の尊さを自覚し、人類の幸せを実現しよう。ヒロシマの訴えは人類の生存への叫びにほかならない。世界の指導者はこの声に耳を傾けて欲しい。私たちは国際協力の在り方を真剣に考え、世界平和に貢献しなければならない。日本国憲法の平和理念を遵守し、平和を教える教育を推進しなければならない。国家補償に基づいた被爆者援護法を速やかに実現しなければならない。朝鮮半島や米国など海外在住の被爆者にも、援護の施策を講じなければならない。これらの実現のため、日本政府の一層の努力を求める」
1991/8/6
広島被爆46周年。広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊式・平和祈念式。海部首相ら5万5,000人が参列。この1年間に亡くなったり、確認された原爆死没者4,787人の名簿が原爆慰霊碑に奉納される
1991/8/6
連合(日本労働組合総連合会)が広島市で単独の平和集会「世界の恒久平和の実現をめざす連合平和集会」開催。1,200人が参加。原水禁国民会議(社会党系)は被爆46周年原水爆禁止世界大会の閉会総会、日本原水協(共産党系)は原水爆禁止1991年世界大会広島大会を開き、8・6原水禁大会は事実上3分裂に
1991/8/6
広島市で海部首相に被爆者の声を直接伝える「被爆者代表から要望を聞く会」。7人の代表が在韓在朝被爆者援助や被爆二世の健康不安を訴えたが、首相は従来の国の考えを繰り返す
1991/8/6
札幌市で「北海道ノーモア・ヒバクシャ会館」(仮称)起工式。北海道被爆者協会や市民グループが募金活動を展開
1991/8/6
「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む広島集会」に台湾元日本兵及び遺族協会連合会会長の廖木全さん、香港索償協会主席の呉溢興さん、韓国原爆被害徴用者同志会の梁基成さんらが参加、賠償を訴える。8日には大田市で開催
1991/8/6
韓国教会女性連合会がソウル市の韓国教会100周年記念館で「反戦、反核、平和集会」開く。被爆者や市民300人が参加。創作劇を通して原爆の悲惨さを告発
1991/8/6
三原市原爆被害者の会が「原爆被爆体験記1991年」を出版▽府中市原爆被害者の会(森原正生会長)が被爆体験記「原爆」第3集を発刊
1991/8/6
広島市で被爆者援護を訴えるロックコンサート「HIROSHIMA91」開く
1991/8/6
観音像を刻み込んだ「被爆敷石」を世界各国の元首に贈る計画を進めている「ひろしま・祈りの石の会」がペルーの首都リマで、フジモリ大統領に被爆敷石贈る
1991/8/6
海部首相が広島市で記者会見。世界各地の被曝者や在外被爆者に対する医療協力に積極的姿勢を示すが、被爆者援護法制定については従来の考えを繰り返す
1991/8/6
広島市主催の「国際平和シンポジウム」開く。湾岸戦争後の新しい平和秩序の構築とヒロシマの役割をテーマに討議。草の根レベルで「被爆・戦争の痛み」を共有する中から、地域間の相互信頼を築くことが世界の安全保障確立につながるとの認識で一致
1991/8/6
広島県双三郡三良坂町の平和を願う会(会長、吉岡雅樹町長)が町平和公園で第1回ダイイン集会開く。50人が参加
1991/8/7
広島平和文化センターが8月1日から6日まで実施した原爆罹災者名簿公開の結果をまとめる。35人が肉親や知人ら41人の死亡を確認
1991/8/7
原水禁国民会議(社会党系)の被爆46周年原水爆禁止世界大会(3,500人参加)と日本原水協(共産党系)の原水爆禁止1991年世界大会(7,500人参加)が長崎市に舞台を移し開幕。連合(日本労働組合総連合会)も8日に連合・平和ナガサキ集会開く
1991/8/7
三菱重工長崎造船所の元徴用工で釜山市在住の韓国人被爆者金順吉さんが、46年ぶりに同造船所を訪れ、未払い賃金の支払いを請求(長崎新聞8・8、8・11、11・19)
1991/8/7
平和のトーチを手に65万人が世界70カ国を走り抜いた「ピース・ラン91」がニューヨークの国連本部前で集結式。発案者のインドの瞑想家シュリ・チンモイ氏や初めてピース・ランに参加したソ連の国連大使が出席
1991/8/7
広島市の平和祈念式に住民を派遣した自治体は38団体1,005人に。広島市が発表
1991/8/8
長崎県労評センター女性協議会(楠本礼子議長)が10年来続けてきた「1円玉9の日カンパ」で「反核・平和はぐくむ像」を制作。爆心地公園で除幕式(長崎新聞8・9)
1991/8/9
旧広島市役所庁舎の被爆敷石を展示している岐阜県蛭川村の博石館が、1年間の入館者が寄せた14万6,381円を広島市に寄付
1991/8/9
原水禁国民会議(社会党系)の被爆46周年原水爆禁止世界大会が閉会総会。長崎国際体育館に4,200人が参加。国連平和維持活動(PKO)への自衛隊参加に反対し、冷戦後の世界の精神的支柱になる平和憲法を守る-などを骨子とした大会宣言を採択▽日本原水協(共産党系)の原水爆禁止1991年世界大会が閉幕。長崎市民会館体育館に8,000人が参加。「被爆国日本ができる国際貢献は、核兵器廃絶に向けた積極的なイニシアチブの発揮」などを盛り込んだ宣言を採択。連合の参入により3分裂となった1991年の原水禁運動は、労働界再編や冷戦崩壊という大波の中で、退潮ムードがくっきり
1991/8/9
山口折鶴の会が山口県が非核自治体宣言をするよう働きかけを求める文書を佐内正治山口市長に提出
1991/8/9
本島等長崎市長が平和宣言。「私たちは日中15年戦争から60年、真珠湾攻撃から50年、長崎原爆で敗戦となったあの戦争を心から深く反省し、その償いを考えなければなりません。湾岸戦争では日本の国際的責任が改めて問われました。今こそ、戦争放棄を誓った日本国憲法の理念に立って、国際社会に果たす役割を考えなければなりません。長崎市民は怒りをもって訴えます。原爆投下はジェノサイド(集団抹殺)であり国際法違反であることを。日本政府は非核三原則の立法化を実現し、世界の核保有国に核実験の全面禁止を働きかけるべきです。日本政府は原爆被爆者への国家補償である援護法の制定をする義務があります。外国人被爆者にも国内の被爆者と同等の援護措置をとるように訴えます。特に朝鮮人、中国人、連合軍捕虜は強制的に連行され、世を去り、帰国しても原爆症、差別に心をむしばまれています。私たちはこれらの方々へ謝罪と償いをしないで国際的責任を果たしたと言えるでしょうか。日本政府はチェルノブイリ原発事故の被曝者や南太平洋の核実験被害者のための国際医療センターを設置してください」
1991/8/9
長崎被爆46周年。長崎市の平和公園で原爆犠牲者慰霊・平和祈念式典。2万5,000人の市民が参列。1年間に亡くなった2,430人の原爆死没者名簿を奉安
1991/8/10
李鵬・中国首相が、訪中した海部首相に核拡散防止条約(NPT)への加盟決定を表明
1991/8/10
在日米海軍横須賀基地から、退役が決まった米空母ミッドウェーが出港。神奈川県原水協や市民グループが「追い出し集会」。核搭載能力がある米空母インディペンデンスが配備へ
1991/8/10
米、ソ、ドイツ、台湾、ケニアの子どもたちと広島、長崎の中、高校生がミュージカルで平和と友好を訴える「ピースチャイルド91」が広島市青少年センターで公演。1,200人の観客が詰めかける
1991/8/11
「チェルノブイリ原発事故被災の子供向け寄付5億ルーブル(約380億円)がソ連共産党の地方組織段階で行方不明に」-。英紙サンデー・タイムズが報道
1991/8/12
島根県原爆被爆者協議会温泉津支部が体験集「劫火の『ヒロシマ』」を発刊
1991/8/13
韓国原爆被害者協会がソウルで原爆犠牲者追悼式を開き、日本政府に40億円の早期一括支出を要求
1991/8/15
米紙ワシントン・ポストが「米ソが7月末に調印した戦略兵器削減条約(START)は削減対象となるミサイルと核弾頭の廃棄を定めておらず、米は戦略防衛構想(SDI)や商業衛星などに再利用する計画」と報道
1991/8/15
終戦記念日。全国戦没者追悼式に原爆死没者遺族26人が招かれる。呉原爆被爆者友の会から初めて理事の又野宏純さんが妻の遺影を抱いて参列▽広島市の原爆資料館に新装開館以来最高の1万2,000人が入館
1991/8/15
米エネルギー省が「ネバダ実験場でこの年4回目の地下核実験を行った」と発表
1991/8/15
米シアトル在住の日系二世タダオ・スノハラさんが戦時下のユタ州立大入学に感謝して同大に両国の友好と平和を願う「佐々木禎子像」を贈る
1991/8/16
平岡広島市長が米核実験に抗議文。18日、被爆者らが広島市の原爆慰霊碑前で座り込み
1991/8/17
広島「憩いの家」の管理運営や被爆者救援などに尽くした田辺耕一郎さんが死去。87歳
1991/8/18
ソ連カザフ共和国を歴訪中のエリツィン・ロシア共和国大統領がセミパラチンスクとノバヤゼムリャでの核実験反対を表明。米ソ両国が核実験を同時に停止する協定の締結を訴え
1991/8/19
ソ連保守派がクーデター。世界新秩序に打撃。米大統領が会見で新政権当面認めず、経済支援停止も示唆
1991/8/21
「ひろしま・祈りの石の会」(犬養智子会長)が広島市相生橋近くの「被爆敷石」をフィリピン政府に贈呈し、マニラ市内の日本庭園で記念碑の除幕式
1991/8/21
被爆建物の継承策を探る広島市の「被爆建物等継承方策検討委員会」が初会合。委員長に庄野直美広島女学院大名誉教授を選ぶ
1991/8/21
英軍事情報誌「ジェーン・インテリジェンス・レビュー」9月号が「北朝鮮が小規模の核兵器を生産する施設と技術力を持っている。95年ごろ核実験を行う能力を取得する予定」との軍事評論家ジョー・バーミュデズ氏の論文を掲載
1991/8/22
厚生省が1992年度予算の概算要求に、広島市の放射線影響研究所移転のための基本設計費計上
1991/8/23
第4回国連ピースメッセンジャー都市会議が横浜市で開幕。25日まで。広島、長崎市など26カ国36都市の代表73人が参加。政変で出席が危ぶまれたソ連からモスクワなど3市が参加
1991/8/23
創作オペラ「はだしのゲン」が広島市で10年ぶりに再演
1991/8/23
世界50カ国の演劇関係者団体「国際児童青少年演劇協会」(アシテジ)のアドルフ・シャピロ会長(ラトビア共和国)らが広島市を訪問。チェルノブイリ原発事故で被災した子供を激励するため日本の協力を要請
1991/8/23
米紙ワシントン・ポストが「失敗したソ連クーデターの指導者はゴルバチョフ大統領から核兵器の暗号表を奪い取っていた」と報道
1991/8/24
韓国保健社会省が初の本格的な在韓被爆者実態調査まとめる。被爆認定を受けた2,085人の88.5%が何らかの後遺症に苦しみ、21%は回復不能の重症。皮膚を含め身体に異常のある人は67%に上ることが判明
1991/8/25
米空母インディペンデンスの横須賀基地配備と、国連平和維持活動(PKO)協力法案に反対し、呉市沖で「ピース・リンク広島・呉・岩国」が海上デモ
1991/8/26
米誌タイムが「全世界にまたがる不正行為を追及されているアラブ系銀行バンク・オブ・クレジット・アンド・コマース・インターナショナル(BCCI)がパキスタンの核兵器製造計画に関与していた」と報道
1991/8/26
ソ連ロシア共和国のルツコイ副大統領が記者会見で、ロシア政府は連邦政府による核兵器使用の拒否権を要求していると言明
1991/8/26
海部首相が参院予算委員会でソ連共産党解体に伴う共和国の独立問題について「核兵器の管理、運営はソ連邦がすべき」との立場を示す
1991/8/26
京都府宇治市の宇治高校生徒会役員が広島市の平和記念公園で平和の灯を採火。430キロを自転車リレーで運び文化祭で展示へ
1991/8/27
アジア・オリンピック評議会(OCA)のアーマド・ファハド副会長(クウェート)が広島市の平和記念公園を訪れ「湾岸戦争後の危機を乗り越えるため広島の復興に学びたい」と語る
1991/8/28
府中市の市民グループ「ジュノーの会」の調査団(佐藤幸男広島大原医研教授ら6人)が、チェルノブイリ原発事故の被災調査と救援のため訪ソ
1991/8/29
ソ連カザフ共和国のナザルバエフ大統領がセミパラチンスク核実験場を閉鎖する大統領令を公布。予定していた3実験も中止に
1991/8/31
宮城県白石市の白石女子高校の2年生が広島の市街地を8畳大に復元した原爆地図を作製
1991/8/31
故永井隆博士の出身地、島根県飯石郡三刀屋町が創設した「永井隆平和賞」の第1回入選者決まる。小中高校生を対象にした作文、小論文で全国から2,128人が応募。福岡県久留米市の大善小学校2年、横馬場千尋さんら3人が最優秀賞に
1991/8/--
ソ連タス通信がコンクリートで覆いをしたチェルノブイリ原発4号機の内部のカラー写真を公開
1991/8/--
被爆死した母を悼み米で平和運動を続けているオレゴン州ポートランド市の元大学教授橋本秀男さんが同州マルトノマ郡から平和への貢献で名誉表彰受ける
1991/8/--
アルバトフ・ソ連アカデミー米国・カナダ研究所長が「クーデター勢力が3日間にわたって核兵器を支配した」と語る▽米紙ワシントン・ポストが「ソ連戦略ロケット軍司令官のマクシモフ大将がクーデター発生直後、各地に配備していた移動式ICBMのSS25など戦略核兵器を格納庫に移動、それを偵察衛星によって探知した米は即応体制を緩和した」と報道

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