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ヒストリー

ヒロシマの記録1990 4月


1990/4/1
原子力船「むつ」の出力上昇試験が中断。原子炉の核分裂反応を調べる中性子検出器の不調が原因
1990/4/1
米海軍のスタージョン級攻撃型原潜で、巡航ミサイル・トマホーク配備対象艦のパファーが米海軍横須賀基地を出港
1990/4/3
米ソ外相会談出席のためシェワルナゼ・ソ連外相がワシントン入り。4日から戦略兵器削減交渉(START)やソ連リトアニア独立問題など討議へ
1990/4/3
米国原爆被爆者協会の倉本寛司会長が広島県医師会を訪れ、在米被爆者への原爆二法適用を外務省に要請すると公表
1990/4/4
公明党が盧泰愚韓国大統領の訪日を控え海部首相に在韓被爆者救援のための予算増額を要請
1990/4/5
広島県安芸郡熊野町の熊野中生徒らが町民の署名を添え、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園内移設を広島市に要望
1990/4/5
ホワイトハウスとモスクワ放送が「ブッシュ米大統領とゴルバチョフ・ソ連大統領の首脳会談が米で5月30日から5日間開かれる」とそれぞれ発表
1990/4/6
ベーカー米国務長官とシェワルナゼ・ソ連外相の会談終了。海洋発射巡航ミサイル(SLCM)などの規制で対立し、戦略兵器削減交渉(START)は5月16日からモスクワで始まる次期外相会議へ持ち越し
1990/4/7
チェルノブイリ原発事故被災者を支援するソ連国営テレビラジオ委員会の8人が広島入り。チャリティー番組「テレビマラソン・チェルノブイリ」制作のため広島赤十字・原爆病院や原爆資料館を取材
1990/4/7
日本被団協が原爆被害の解明、被爆者の生活を学術的な面から探る「被爆者問題研究会」を発足
1990/4/7
被爆者援護に努めた広島1区選出の前社会党代議士大原亨さんが呼吸不全のため広島市内で死去。74歳。1959年に社会党が初めて衆院に被爆者援護法を提案した際、起草者代表として提案理由を説明
1990/4/10
韓国紙の朝鮮日報が「日本政府が在韓被爆者に67億円を拠出することで日韓両政府が合意」と報道
1990/4/10
広島市がヒロシマ修学旅行の学校へ贈る夾竹桃の初贈呈式があり、安来市の十神小へ
1990/4/10
米の反核・消費者団体「パブリック・シティズン」が米原発労働者の放射線被曝実態を調査し「1988年の被曝者数は10万5,265人で過去最高」と発表。原子力業界は「1カ所当たりの被曝者数は減少」と反論
1990/4/10
鳥取大名誉教授の三木利英さんが東広島市の実家に安置していた被爆千手観音像が盗まれたと西条署に通報。観音像は旧広島文理科大(現広島大)で被爆
1990/4/10
広島市が被爆45周年を記念して製作した原爆記録映画「ヒロシマ・母たちの祈り」が完成し、初公開。同映画は1970年製作の「ヒロシマ原爆の記録」改定版
1990/4/11
元アキバ・プロジェクト記者で米ヘラルド紙のジョセフ・コープランド論説委員が広島を4年ぶりに再取材
1990/4/11
青森県むつ市関根浜港で出力上昇試験をする原子力船「むつ」が、1974年9月の事故時を上回る原子炉の出力を達成
1990/4/12
中国新聞が連載企画「世界のヒバクシャ」で、米のビキニ水爆実験による第五福竜丸乗組員23人の被曝実態を追跡。交通事故死を除く7人が肝臓障害で死亡
1990/4/12
原子力船「むつ」の原子炉制御棒部品に接触不良が見つかり、運転を2時間停止。14日、発電機に蒸気を送る主給水ポンプの不調で再度中断
1990/4/13
韓国原爆被害者協会の辛泳洙会長ら一行13人が日本政府への補償要請行動のため長崎入り。14日、本島等市長が「日本は皆さんに迷惑をかけた」と謝罪
1990/4/13
広島市が計画する「平和研究所」基本構想案まとまる。1995年度開設を目標に世界の核被害や核軍縮などの情報発信を構想
1990/4/13
広島市の放射線影響研究所設立15周年記念式典開く
1990/4/14
米海軍の上級研究員がワシントンでの「ミサイル拡散問題国際会議」で、第三世界諸国で地対地ミサイルの独自開発が進み核弾頭や生物・化学兵器装備の危険も高まっていると発表
1990/4/14
安来市の十神小がヒロシマ修学旅行で贈られた夾竹桃の苗木を全校児童で植樹
1990/4/16
ニューヨーク・タイムズが米国防長官とのインタビュー記事で「ソ連が戦略核削減を地上配備に限らず潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)も含めるべきと主張し、米は要求を拒否」と報道
1990/4/16
原爆ドーム保存工事の完成式。荒木広島市長が「ドームは核兵器の被害の恐怖を物語る証人として永久保存しなければならない」とあいさつ。全国からの募金は14日現在3億9,600万円
1990/4/16
国連軍縮仙台会議が「科学技術の趨勢と国際平和・安全保障への影響」をテーマに4日間の日程で開幕。先端技術を軍縮に生かす道を探り米、ソ、日本など21カ国、42人の軍事問題専門家や科学者らが参加
1990/4/16
韓国原爆被害者協会の一行が広島市役所を訪問。在韓被爆者への謝罪・補償実現の協力と韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園移設を要望。荒木市長は多忙を理由に面会せず
1990/4/17
「米国防総省などの一部は北朝鮮が3、4年後に最初の核起爆装置を開発すると見ている」。米カーネギー国際平和財団の非核拡散部長がワシントンで講演
1990/4/17
ブラジルの広島、長崎両県人会やブラジル原爆被爆者協会が製作した「平和祈念碑」が広島市中区の本川河岸で除幕式
1990/4/18
「HIROSHIMA87-97コンサート」の代表が89年の収益金3,000万円を広島市に寄付。同市3番目の原爆養護ホーム建設への寄付金は1億3,300万円に
1990/4/18
ニュージーランドのサー・ケリー・バーク国会議長らが広島市の平和記念館の被爆資料仮展示場を見学。バーク議長は同国の非核政策に触れ「ここに来て、自分たちの政策が間違いないことを確信」と述べる
1990/4/18
中山太郎外相が、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園内移設問題について「公園の中にお祭りする方向で努力したい」と衆院外務委で答弁
1990/4/19
下関市のサンデン交通新人バスガイド30人が、被爆者の話を聞きながら広島市の平和記念公園を回る観光案内研修
1990/4/19
米議会会計検査院(GAO)が「環境汚染が深刻な核生産施設の浄化作業が進んでいない」と公表
1990/4/19
長崎市が、来日中の韓国原爆被害者協会の梁永哲さんに被爆者健康手帳交付を決定(長崎新聞4・20)
1990/4/19
韓国原爆被害者協会の一行が外務省を訪問。川島裕アジア局審議官がサハリン残留韓国・朝鮮人問題の政府答弁を引用し「在韓被爆者についても申し訳ない気持ちだ」と政府として初めて直接謝罪。支援のための援護基金創設を表明
1990/4/19
国連軍縮仙台会議が閉幕。明石康国連軍縮担当事務次長が(1)安全保障を軍事面に限らず環境、文化、経済面まで広げて考える(2)既存の技術が開発途上国に公平に再配分されるべき-などと討議を総括
1990/4/20
「核軍縮を求める22人委員会」(座長、宇都宮徳馬参院議員)が東京で総会。三木元首相らの死去に伴い宮沢弘参院議員(自民・広島)ら7人を新委員に
1990/4/20
韓国原爆被害者協会の訪日団が都内の日本被団協を訪れ、山口仙二代表委員と懇談。辛泳洙会長が「日本の被爆者との連帯を強めたい」
1990/4/20
韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園内移設問題で、広島県朝鮮人被爆者協議会の李実根会長が会見。「(民団と総連による)統一碑は極めて難しい」と政府、広島市による新設慰霊碑の設置を提案
1990/4/20
外国船に非核証明を義務付けようと、呉地区平和委員会などが「非核の呉港を求める会」を結成
1990/4/20
広島市の原爆資料館にある黒こげの弁当箱をテーマにした児童書「まっ黒なおべんとう」が、共同映画全国系列会議の製作・配給でアニメ映画化へ
1990/4/21
リビアの最高指導者カダフィ大佐が抑止力としての核兵器開発をアラブ諸国に呼び掛け
1990/4/22
反核市民グループ「ピース・リンク広島・呉・岩国」が呉市内で在日米軍の弾薬海上保管反対を訴えてデモ行進
1990/4/23
荒木広島市長が中国新聞のインタビューで、在韓被爆者問題は「軽々しく論じるわけにいかず長崎市長のように言うのは無責任」と述べ、韓国原爆被害者協会の訪日団と会わなかったのは「時間的に無理だった」と釈明
1990/4/23
秘密解除された米エネルギー省の議会あて報告書で、政府が戦略核兵器近代化のため今後10年間は現行以上の核実験制限に応じる意向のないことが判明
1990/4/24
精神養子運動や原爆乙女の治療に努めた米の平和運動家、ノーマン・カズンズさんが「庭野平和賞」を受賞し、東京で贈呈式
1990/4/24
ソ連チェルノブイリ原発事故被災者の治療に当たるウクライナ共和国のアレキサンダー・ヤコブレフ医師が原水禁国民会議(社会党系)の招きで広島市の放射線影響研究所などを視察し、広島、東京で講演。「ウクライナだけで2,000人の甲状腺障害が認められ、子供たちを広島で検査してほしい」と援助を訴え
1990/4/24
二つの広島県被団協など9団体でつくる「被爆者援護法実現広島県100万人署名大運動」の実行委が署名呼び掛け人を発表。荒木広島市長や竹下虎之助広島県知事ら60人が名を連ねる
1990/4/25
参院野党6会派が5月9日に被爆者援護法案の共同提出を決定
1990/4/25
広島市の放射線影響研究所の新所長に米ミシガン州立大のジェームズ・トロスコ教授が決まる
1990/4/25
原子力船「むつ」の原子炉出力実験が目標の出力20%を達成し、終わる
1990/4/25
英海軍フリゲート艦アリアドネが呉市の海自隊桟橋に入港。司令官が「核爆雷装備のヘリコプターは積載していない」と疑惑否定
1990/4/25
ソ連最高会議がチェルノブイリ原発事故被害者の新救済計画審議へ。93年までにウクライナ、白ロシア、ロシアの3共和国から新たに住民20万人の避難計画などが柱。汚染地域からの避難民は89年までに11万6,000人
1990/4/26
韓国原爆被害者協会釜山支部長の車貞述さんが母校の現広島電機大付属高で、生徒らに被爆体験話す
1990/4/26
ノーマン・カズンズさんが原爆乙女9人と広島市内で再会。「日本が世界でも有数の軍事大国になったのは悲しい」と述べる
1990/4/26
ソ連チェルノブイリ原発事故4周年で、「原発はごめんだヒロシマ市民の会」などの20人が原爆慰霊碑前で夜の座り込み
1990/4/27
日教組の福田忠義委員長が原爆ドーム保存募金に1,000万円を寄付。募金総額は4億600万円に
1990/4/27
ノバヤゼムリャ島でのソ連核実験継続計画に、北欧5カ国の社会民主主義政党が計画撤回を要請
1990/4/27
米カリフォルニア州オークランド市が核兵器の製造や運搬、貯蔵などの禁止を定めた非核都市条例について、サンフランシスコ連邦地裁が「条例は連邦政府の国防と原子力エネルギーに関する権限侵害」と、米政府の主張を全面的に認める違憲判決
1990/4/27
韓国の金宇相下関総領事が荒木広島市長に韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園内への早期移設を要請。社会党広島市議団も「市長が指導性を発揮し移設を」と申し入れ書提出
1990/4/29
米の女性平和運動家バーバラ・レイノルズさんをしのぶ会が長崎市内で開く
1990/4/--
広島市中区吉島東学区連合婦人会が被爆体験集「閃光パート2」を刊行。16人が体験寄せる
1990/4/--
広島市の放射線影響研究所が移転問題や将来の研究体制について市関係者らを含めて検討に着手へ
1990/4/--
作家原民喜の「夏の花」、大田洋子の「屍の街」、詩人峠三吉の「原爆詩集」を英訳編さんした「ヒロシマ-三人の証人」が米プリンストン大出版から刊行
1990/4/--
広島市の画家増田勉氏がヒロシマ・シリーズ作品の総仕上げ。8月に同市内で個展
1990/4/--
広島県原水禁がソ連チェルノブイリ原発事故やセミパラチンスク核実験場被災者のため募金活動や医師招請の救援活動を本格化
1990/4/--
広島市特別名誉市民フロイド・シュモーさんが米シアトルで広島市の原爆瓦などを配置した「ピースパーク」建設へ
1990/4/--
長崎市が1990年度から被爆者の映像を記録。初年度10人の「被爆の語り部」をビデオ収録

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