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ヒストリー

ヒロシマの記録1990 7月


1990/7/1
呉港入港の外国艦船に非核証明義務付けを求める呉市条例改正直接請求の署名活動始まる。呉地区平和委員会など27団体の「非核の呉を求める会」が呼び掛け
1990/7/1
ソ連放射線医学研究所のアナトリー・ツウブ所長らが、放射線影響研究所など視察のため広島入り。ツウブ所長は「セミパラチンスク核実験場周辺住民のがん発生率は自然発生率を7%上回る」と公表
1990/7/2
社会党系労組の青年らが広島県内の全市町村2,000キロを走る「反核平和の火リレー」が、広島市の平和記念公園をスタート
1990/7/2
長崎市の原爆資料館の代表的な絵画「悲しき別れ-荼毘」の少女、福留美奈子ちゃん=当時(9つ)=の母で京都に住む88歳の志さんが初めて絵の中の愛娘と対面。原爆投下時、娘を兄夫婦に預け中国上海に
1990/7/3
米エネルギー省が、1991年度から始まる核兵器生産施設の放射能汚染除去費が当初予想額より50%以上膨れ、浄化30年計画終了時には2,000億ドル(約30兆円)以上との見通し示す
1990/7/3
自民党の原爆被爆者対策小委で、広島県選出の国会議員10人が所得制限撤廃などで被爆者諸手当の実質年金化を図る被爆者対策の見直し案を提案
1990/7/3
仏外務省が8月からの核拡散防止条約見直し会議に初のオブザーバー派遣を発表。同条約、部分的核実験停止条約に未加盟の仏外務省スポークスマンは「軍縮の進展に対する仏の意思表示」と述べる
1990/7/4
軍縮の促進を目指す市民運動「アジア太平洋協議会」主催の国際会議がオーストラリア・メルボルン大で始まる。日本のアジア太平洋資料センター運営委員の井上礼子さんら30カ国が参加
1990/7/4
仏が南太平洋仏領ポリネシアで地下核実験。前月の6月から4回目
1990/7/5
科学技術庁が1989年度の試験研究用原子炉14施設の放射線業務従事者の被曝状況を原子力安全委員会に報告。国際放射線防護委(ICRP)の新基準目安20ミリシーベルトを超す従事者は6,203人のうち12人
1990/7/5
広島市が、原爆供養塔に眠る遺骨のうち手掛かりがありながら引き取り手のない960柱の名簿を都道府県など全国1,042の自治体に発送
1990/7/5
荒木広島市長が仏核実験に抗議文
1990/7/5
三菱重工業が「在韓三菱徴用被爆者・遺家族・帰国遭難者・戦後問題対策会」(深川宗俊会長)の補償に関する公開質問状への回答を見送る
1990/7/6
東京・世田谷区の大場啓二区長が広島市の平和記念公園で「平和の灯」を採火。平和都市宣言5周年を記念し、区内の公園に長崎「誓いの灯」と合わせ点火(7・6、7・7)
1990/7/6
環境保護運動団体「グリーンピース」のヨット、ベガ(4人乗り組み)が「核のない海」キャンペーンのため太平洋を横断し横須賀港に入港。27日には呉港にも(7・8)
1990/7/7
爆心地そばの旧本川国民学校(現本川小)に勤め被爆死した教師の娘で東京都の主婦友田洋子さんが、母沖本照恵さんの形見の指輪を学校に寄贈。指輪は被爆から26年後に南区似島の原爆犠牲者遺骨発掘で見つかる
1990/7/7
広島市の原爆慰霊碑前で仏核実験抗議の座り込み。平和学習で訪れた米など6カ国の留学生も参加
1990/7/7
広島県原水禁がソ連の核被害者救援に医療機器などを贈るため、広島市内で街頭募金
1990/7/7
世界平和記念聖堂(広島市中区幟町)の生みの親であるドイツ出身の被爆カトリック神父、愛宮真備(えのみや・まきび=帰化名)=旧名フーゴー・ラサール=さんが西ドイツの病院でがんのため死去。91歳。1929年来日し、40年着任した幟町教会で被爆。世界各国を行脚して建設を訴えた聖堂は54年に完成。68年広島市名誉市民
1990/7/8
広島の被爆者で鳥取県原水協事務局長の伊谷周一さんがスライド「広島、長崎原爆慰霊碑めぐり」を製作
1990/7/9
「在韓三菱徴用被爆者・遺家族・帰国遭難者・戦後問題対策会」の深川宗俊会長が、公開質問状への回答拒否に抗議し、三菱重工業に質問書を郵送
1990/7/10
広島市の平和記念公園内への韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移設問題で、建立委員長だった張泰煕さんが在日本大韓民国居留民団と在日本朝鮮人総連合会が同意した碑文の削除、書き改め反対を広島市に陳情
1990/7/11
平和都市宣言5周年を記念し「平和の灯」建設を計画している東京・世田谷区の代表者らが爆心地公園の「誓いの灯」から採火
1990/7/12
広島県被団協(森滝市郎理事長)が総会。被爆者援護法の制定に向け(1)賛同署名していない県内選出の自民党6国会議員の署名を得る(2)自治体で制定意見書の採択を進める-など運動方針決める
1990/7/12
広島市の原爆養護ホーム「舟入むつみ園」のお年寄り37人が原爆慰霊碑に参拝。最高齢者で夫を亡くした95歳の古賀キクさんは「生きている限り犠牲者のめい福を祈り続けたい」
1990/7/12
建物疎開作業で被爆死した村民191人を祭る広島市安佐南区川内地区の供養塔前で、地元川内小の全児童と教師が平和集会
1990/7/12
米ワシントン州のハンフォード核物質生産工場から多量の放射性物質が大気中や河川に排出され、1944年から4年間で周辺住民27万人の大半が被曝していたことが判明。科学者や地元自治体代表でつくる「ハンフォード環境線量調査プロジェクト」が調査し、公表
1990/7/13
広島、長崎の両県市などで構成する広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会(八者協)が国の新年度概算要求で厚生省や自民党原爆被爆者対策小委員会に、遺族弔慰金の支給などを陳情
1990/7/13
原爆で生徒、教職員349人が亡くなった広島女学院がプロの脚本による原爆ドキュメントフィルム製作へ。タイトルは「夏雲-逝きしものへのレクエイム」
1990/7/14
スペイン・マドリードのテレビ局「アンテナ3」が広島原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイ元航法士のセオドア・バンカーク氏や広島大原爆放射能医学研究所の横路謙次郎教授らによる討論番組を収録。原爆投下について、バンカーク氏は「軍人として、あくまで命令の一つとして従い、投下しただけ。原爆の知識は教えられていたが、あれほど多くの人間を殺傷するとは予想もしていなかった」と語る。番組は8月3日、現地で全国放映
1990/7/14
被爆45周年原水禁世界大会に、北朝鮮に帰国した広島の朝鮮人被爆者が参加の意向を伝える
1990/7/14
広島市中区で被爆した向井稔子さんの体内から44年ぶりに摘出されたガラス片3個が、「世界の子どもとユニセフ展」広島コーナーで展示
1990/7/14
韓国ソウル日本大使館前で農薬を飲み自殺を図った在韓被爆者の李孟姫さんが在韓被爆者渡日治療広島委員会(河村譲代表)の支援で戦後初めて広島入り。被爆者健康手帳も取得
1990/7/15
韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移設問題を通し「いま、平和公園のあり方を問う」シンポジウムを市民10団体が広島市内で開催。碑文削除に批判相次ぐ
1990/7/15
米紙ワシントン・ポストが「米エネルギー省は2050年まで核兵器を製造するため全米12州に散らばる兵器製造工場を1つか2つの巨大施設に統合するなど近代化計画を推進する方針」と報道
1990/7/15
広島市立中央図書館が「広島資料室」に収める私家版の手記を展示する「被爆体験記展」が始まる。1948年の小倉豊文「絶後の記録」など50点
1990/7/16
労働組合の機関紙記者らでつくる「日本機関紙協会」(植上孝司理事長)の代表25人が、被爆建物の病棟改築計画を進める広島赤十字・原爆病院を共同取材
1990/7/16
世界平和記念聖堂の建設に尽力し7日死去した被爆カトリック神父、愛宮真備さんのミサが広島市中区の聖堂で営まれ、信者ら300人が参列
1990/7/17
美濃焼の町、岐阜県土岐市が市立陶磁器試験場の開発によるセラミックスペーパーの折りづるを広島市内の小学校に寄贈へ。焼き上げると陶磁器に
1990/7/17
ジュネーブ軍縮会議(45カ国)で日本政府代表部が設置を呼び掛けていた核実験全面禁止への方策を探る「核実験停止問題委員会」(アドホック委員会)が発足。委員長に堂ノ脇光朗軍縮大使
1990/7/17
広島市南区の増本貴美子さんが被爆し行方不明の祖父が戸籍の上で生存者になっているのを知り、広島家裁に失踪宣告申し立て。原爆死没者として戸籍抹消へ
1990/7/18
広島平和文化センターの被爆証言ビデオ「ヒロシマの証言-被爆者は語る」50本が完成。在韓被爆者や国内在住のただ一人の中国人被爆者朱定裕さんも証言
1990/7/18
本島等長崎市長が北朝鮮への社会党訪朝団に、北朝鮮にいる被爆者への謝罪と援助の意向を伝言
1990/7/18
ワトキンズ米エネルギー省長官が米企業グループとの間で、軍事機密扱いの核兵器研究所施設や核生産技術情報の一部を公開する合意文書に調印。新素材合成技術などを人工衛星、次世代原子炉に応用
1990/7/19
ソ連カザフ共和国国際文化交流協会のミレイ・オマロフ会長が広島市を訪れ、ネバダ・セミパラチンスク運動のオルザス・スレイメノフ議長の「広島・長崎被爆50周年に向け、地球上の全核実験場の閉鎖を」とのメッセージを荒木市長に手渡す
1990/7/19
呉、佐世保、横須賀、舞鶴の旧軍港4都市の平和運動家が集い、呉市内で「非核サミット」。平和産業港湾都市の建設をうたう共同声明を発表
1990/7/19
山口県被爆者団体協議会が総会を開き、被爆者援護法の制定と被爆体験を聞き書き、テープで残す「一筆運動」を運動の柱に
1990/7/20
「JAGDA平和ポスター展1990」がひろしま美術館で始まる。今年8作目の「ヒロシマ・アピールズ・ポスター」は、ミッキー・マウスが両手で目を覆うグラフィックデザイナー石岡瑛子さんの「X像の沈黙」
1990/7/20
非核三原則法制化に向けて要項を発表した「核軍縮を求める22人委員会」(座長、宇都宮徳馬参院議員)が東京で「非核法についてのシンポジウム」を開催
1990/7/20
広島市が平和記念公園内の韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移設予定地に立てていたくいを撤去。新しい碑文の調整がつかず、8月6日までの移設を断念
1990/7/20
欧州や日本など9カ国、12人の市民がレジスタンス運動や被爆体験などを手記で寄せ、英BBC放送が放送した「チルドレン・アット・ウォー」の翻訳版「ぼくの町は戦場だった」が平凡社から出版
1990/7/21
北朝鮮が核拡散防止条約(NPT)の協定締結、条約に基づく国際原子力機関(IAEA)の査察を受け入れる条件として、米政府との直接交渉を提案。対北朝鮮核兵器不使用などの保証を求める
1990/7/21
党派の違いを超え平和について語り合う「被爆45周年ながさき平和大集会」が長崎市の平和会館で開かれ、市民ら800人が参加。核兵器廃絶などを採択
1990/7/21
NHK広島放送局が1982年から88年にかけ制作した原爆の特別番組3本が「NHK特集名作100選」として発売。「これがヒロシマだ~『原爆の絵』アメリカをゆく」、「黒い雨~広島・長崎、原爆の謎」、「夏服の少女たち~ヒロシマ・昭和20年8月6日」
1990/7/21
広島、長崎の原爆の火をともし続けるモニュメントが東京・上野公園の上野東照宮境内に完成。嵯峨敞全宮司が「殺りくの炎を核兵器廃絶を祈る火として守り抜こう」と落成あいさつ
1990/7/22
旧広島陸軍病院大田分院で亡くなった原爆犠牲者の初の追悼法要が大田市の明善寺で営まれる。動員学徒として看護に当たった大田高等女学校の卒業生が主催、遺族ら140人が焼香。旧制県立広島一中の原爆犠牲者369人の慰霊祭が国泰寺高前庭の「追悼の碑」前で営まれ、遺族や在校生徒ら250人が参加
1990/7/22
中国新聞が「90素顔の平和都市」と題する企画記事を11回連載。8月3日まで。(1)雲の上のイベント(2)消えた爆心の橋(3)転機の平和教育(4)「明るい」平和路線-など、平和行政の形がい化を問う
1990/7/22
ソ連チェルノブイリ原発事故被災者救援のため、国際原子力機関(IAEA)の調査団として広島大原爆放射能医学研究所の蔵本淳所長や原爆白内障に詳しい広島大医学部の調子寛治教授らが訪ソ 1990/7/22
ロシア共和国ハバロフスク地方のソビエツカヤバガニ湾の地元民がソ連海軍が計画する原潜解体に反対デモ。タタール海峡(間宮海峡)の非核地帯化を要求
1990/7/22
広島県被団協(佐久間澄理事長)が総会で、被爆者援護法の制定で県内100万人署名の達成決める
1990/7/22
「原爆の子」(長田新編、岩波書店)の39年ぶりの文庫化を記念して、長田家の遺族が当時の子供たちでつくる執筆者グループ「きょう竹会」(早志百合子会長)の会員ら20人に文庫本を贈る
1990/7/23
1989年の「ヒロシマ・アピールズ・ポスター」藤井三雄さんの「ヒロシマの天空」が第14回世界グラフィックデザイン・ビエンナーレでグランプリ獲得
1990/7/23
広島市平和記念館の原爆資料館仮設展示場にある米国防総省の原爆投下指令文書の和訳に「爆弾の効果を観察し記録するため、もう一機が爆弾携行の飛行機に随伴する」との記述が欠落。市議会で指摘され修正へ
1990/7/23
被爆建物である広島市中区の日本銀行広島支店の保存運動に取り組む「中区の文化を考える会」(二方マキ子代表)が広島市に3万8,835人の保存署名簿を提出
1990/7/24
広島県立油木高の生徒会が広島赤十字・原爆病院にバザー収益金と千羽づるを贈る
1990/7/24
広島の市民団体「いま、平和公園のあり方を問う」シンポジウム実行委が、韓国・朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑(仮称)建立準備委の原田東岷委員長ら7人に慰霊碑の碑文削除反対を申し入れ
1990/7/24
在日本大韓民国居留民団広島県地方本部が韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移設問題を話し合う臨時地方委員会開催を前に(1)碑文見直しは改ざんではない(2)原形のままの移設、日本人によるしょく罪碑建立との意見は次元の違う問題ーなどとする「基本見解」を提示
1990/7/24
韓国原爆被害者協会の辛泳洙会長が外務省を訪れ「あくまで日本人被爆者並みの援護を」との要望書を提出。在韓被爆者援護の40億円基金も一括拠出と被爆者の要望に沿った使途を要請
1990/7/24
広島市の8月6日休日と沖縄の「慰霊の日」(6月23日)について、自治省が特例として独自の自治体休日として存続容認を固める
1990/7/25
黒い雨に遭いながら被爆者として認定されない住民らでつくる「広島県黒い雨・自宅介護等原爆被害者の会連絡協議会」の花本兵三会長らが、広島県と広島市に黒い雨地域の指定拡大や健康診断の実施など要望
1990/7/25
自民党の原爆被爆者対策小委員会が被爆者への現行諸手当の所得制限を撤廃、実質年金化の方向で新年度予算に概算要求するよう申し合わせ
1990/7/25
米エネルギー省が「宇宙での核実験の影響調査を目的とする地下核実験をネバダ核実験場で実施した」と発表
1990/7/26
長崎の原爆投下機ボックス・カーと編隊を組んだグレートアーチスト元機長フレデリック・ボック氏が、投下時の状況を記した手紙を長崎市に送っていたことが判明。「2機編隊で小倉から真っすぐ長崎に向かった」と、長崎市南方海上経由で侵入したとする目撃証言を否定
1990/7/26
在日本大韓民国居留民団広島県地方本部(徐聖銖団長)が臨時地方委員会で、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園内移設に伴う民団移設審議委員会の碑文修正案「倍達(ペダル)民族原爆犠牲者慰霊碑」を提示。しかし、修正反対が強く審議委へ差し戻し。徐団長は「現状のまま仮移設を」と方針変更を広島市に伝える
1990/7/26
中国がスイス・ジュネーブで8月に開く核拡散防止条約会議にオブザーバーとして初めて参加へ。中国訪問中の英モード国務相が明らかに
1990/7/26
「核のない海」キャンペーン中の環境保護運動団体グリーンピースのヨット、ベガが呉港に入港。入港途中の米海軍ミサイル巡洋艦ステレットに抗議の並走航行
1990/7/26
荒木広島市長が米核実験に抗議文
1990/7/26
広島市が核実験の度に実施国の在日大使館に送る日本語の抗議文を翻訳し、再び本国政府にも直送を決める。1968年からの核実験抗議文は75年から在日大使館あてだけとなり、本国政府に届いているかどうかその効果に疑問も指摘されたため
1990/7/26
島根県立大田高放送部がビデオ「追憶~九十九の棺」を製作。広島陸軍病院大田分院となった旧制大田中と大田高等女学校に収容された広島の被爆兵をテーマに、NHK杯全国高校放送コンテストに出品
1990/7/27
広島市の御幸橋架け替え工事に伴い、地元有志らが橋西詰めに建立したモニュメント「広島ヒロシマHIROSHIMA」が完成し、除幕式。橋にゆかりの被爆者ら133人の寄せ書きをタイムカプセルで埋設
1990/7/27
ゴルバチョフ・ソ連大統領が訪日問題について「来年の春に訪問、広島を訪ねたい」と述べる。訪ソ中の池田大作創価学会名誉会長との会談で意向を明かす
1990/7/27
広島県が被爆45周年を記念して県庁構内に「核兵器廃絶に関する広島県宣言の碑」建立を決める。非核宣言をした13府県のうち宣言碑建立は初
1990/7/27
長崎新聞が、ろうあ被爆者の戦後史「手よ語れ」を連載。8回
1990/7/27
広島市の平和記念公園の被爆アオギリの説明板が交換のため撤去されたまま4カ月過ぎていることが市民の指摘で判明。広島市は急きょ仮説明板設置へ
1990/7/28
米海軍横須賀基地を母港として配備された米イージス・ミサイル巡洋艦モービルベイが、米海軍が核兵器搭載艦船に義務付けの核技術能力検査(NTPI)で検査証の発給を受けていたことが判明。「グリーンピース」ワシントン事務所が米海軍公式記録を入手し明かす。同巡洋艦は30日、横須賀基地に入港
1990/7/28
大阪市原爆被害者の会(森田栄会長)が中之島の野外音楽堂で被爆45周年原爆犠牲者慰霊祭を営み、303人の死没者名簿を奉納。近くの土佐堀川で灯ろう流し
1990/7/28
米の25日のネバダ地下核実験に抗議し、被爆者らが広島市の原爆慰霊碑前で座り込み
1990/7/28
体験記「原爆の子」執筆者の一人で愛知県立大教授の片岡脩さんの平和ポスターなどを展示した「三人三様展」が東京・銀座の画廊で始まる
1990/7/28
ソ連の反核市民団体「ネバダ・セミパラチンスク運動」のオルザス・スレイメノフ議長や核実験被曝者ら12人が原水禁国民会議の原水禁世界大会に初参加のため来日。「異常出産が増え、風下地区では最近1年間、3人に1人が障害を持つか死亡して生まれている」と記者会見
1990/7/28
英のオーストラリア核実験を告発した米・オーストラリア合作映画「グラウンドゼロ」(1988年製作)が広島市中区のサロンシネマで上映
1990/7/29
東京都原爆被害者団体協議会(東友会、伊東壮会長)の原爆犠牲者合同慰霊祭が品川区の東海寺で営まれ、200人が参加。この1年間に亡くなった被爆者106人のうち遺族希望の47人の名前が慰霊碑死没者名簿へ
1990/7/29
広島市西区の渡辺美代子さんら被爆者の呼び掛けで市民500人が全国から集まった1,700枚の手作りの「ピースリボン」を持ち、原爆ドームを取り囲む
1990/7/29
神奈川県原爆被災者の会が鎌倉市の大船観音境内に「原爆の火の塔」を建立。福岡県八女郡星野村出身の山本達夫さんが広島の焼け跡から持ち帰り村内でともされる「原爆の火」を分火
1990/7/29
中国新聞が被爆45周年の各テレビ局の原爆特集を「新しい核時代における広島の役割を問い直そうとする番組が目立つ」と紙面紹介。NHKは8月6日、衛星放送で広島と米ロサンゼルスやソ連ボルゴグラードなど世界4カ国を終日結び平和へのメッセージを交換するほか、被爆者100人の手記や在韓被爆者の現状など「広島証言6シリーズ」を放送。中国放送、広島テレビ、テレビ新広島はソ連セミパラチンスク核実験場の被曝実情を伝える
1990/7/29
広島市の平和記念公園の原爆の子の像前に市内14中学の生徒ら350人が集い、碑前祭
1990/7/30
広島赤十字・原爆病院が1989年度の原爆医療部門の概況を発表。入院患者数、死亡者数とも56年の原爆病院開設以来最多を記録、死者102人のうち悪性腫瘍が72人と7割を占める
1990/7/30
被爆45周年平和祈念式で「平和の鐘」をつく遺族代表に、広島市西区の29歳の農協職員石橋一幸さんと東区の24歳の看護学生荒木雪子さんが決まる
1990/7/31
核禁会議が広島県民文化センターで全国総会を開き、600人が参加。核兵器廃絶などアピール
1990/7/31
広島市信用金庫が爆心地から1.7キロの被爆建物である横川支店(西区)の建て替え計画を発表。新店舗正面玄関に被爆飾り柱を設置し、保存へ
1990/7/31
広島市南区の段原中の前身である旧市立第一高等小学校(戦時中に第一国民学校)の卒業生らが被爆45周年を記念し、構内に建立した慰霊碑前で初の慰霊祭。学徒動員で家屋疎開作業中の50人が被爆死
1990/7/31
岐阜県各務原市の平野喜八郎市長が同市が空襲を受けた6月22日を「平和の日」と市議会で決議したのを受けて広島市を訪れ、原爆の子の像に市民が折ったつる42万羽を供える
1990/7/31
ソ連ノーボスチ通信社カザフ支局長のアスカル・ヌルマノフ記者が中国新聞社と広島国際文化財団の招きで被爆実態を取材するため広島入り
1990/7/31
「被爆者援護法実現・みんなのネットワーク」に賛同する弁護士らが東京都内で「法律家たちのネットワーク」を結成し、全国の法律家に援護法制定署名とカンパを募る。27人の呼び掛け人に「原爆訴訟」の主任弁護士松井康浩さんや日弁連の元会長ら
1990/7/--
広島平和教育研究所が児童向けに被爆の歴史を紹介する「あるいてみよう広島のまち」を刊行
1990/7/--
広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」で90歳になる和田タカさんが句集「被爆馬」を出版
1990/7/--
広島平和文化センター発行の「ヒロシマ読本」に載る「中曽根句碑」について、同センターは句碑撤去を求める反核・平和市民グループ30団体の求めに応じ新改訂版で紹介文に反対運動の経緯を記述へ
1990/7/--
大田市で被爆兵の介護に当たった元衛生兵、廿日市市の中本昇さんが、元動員女学生らの証言で被爆者健康手帳取得へ
1990/7/--
広島県府中町の作曲家神保重喜さんが建物疎開作業で被爆死した級友をしのび追悼歌「夾竹桃」を作曲。県歌謡大会で発表へ
1990/7/--
広島市中区千田町の「明日の千田を創る会」が地区内の公園にある被爆クスノキ、エノキなどに説明札を取り付け
1990/7/--
新人漫画の登竜門「手塚賞」に、広島大生真木野ばお(本名平口喜章)さんが原爆をテーマの「爆弾のおちた日」で準入選
1990/7/--
広島市が、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園内への移設地を原爆供養塔の南側に決定
1990/7/--
広島市佐伯区の主婦坂田朔子さんが、原爆で夫と長女を失った母の大辻勝子さんの半生を絵本に
1990/7/--
広島県高校生平和ゼミナールを指導する安田女子高教諭の沢野重男さんが原爆瓦の発掘など15年間の活動をまとめた「世界史をつくる子どもたち-平和・人権学習のすすめ」を出版
1990/7/--
米で反核を訴える「ネバーアゲイン・キャンペーン」に参加した東京都の英語講師中村里美さんが1年間の体験記「アメリカにだって伝えちゃえ」を出版
1990/7/--
広島市立舟入高演劇部が原爆劇「ともこのオルゴール」で8月6日から甲府市で始まる全国高校演劇コンクールに中国地区代表として出場へ
1990/7/--
広島大総合科学部の舟橋喜恵教授が広島県内の全市町村議員1,489人に被爆者援護や平和運動などの意識と行動についてアンケート調査。被爆者援護を「積極的に進めるべき」が49%に対し「原爆二法で十分」が43%、原爆投下を「やむをえなかった」との容認派が2割を超える
1990/7/--
カナダ・バンクーバーの「平和の灯」の前で、広島の被爆者で結婚のため戦後移住したキヌコ・ラスキーさんと古武家初枝さんが「カナダ被爆者協会」への支援を訴える。同地の被爆者は20人を超す
1990/7/--
学徒動員中に原爆で350人のうち40人が爆死した旧県立長崎高女42回生が、73人の手記を収録した体験記「あの日あの時」を出版

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