×

ヒストリー

ヒロシマの記録1989 7月


1989/7/1
海上保安庁が米空母タイコンデロガから水爆を搭載し水没した艦載機の事故海域の調査を始める
1989/7/1
平和記念公園に広島国際会議場が完成し、開館記念式典。丹下健三氏が設計し、総工費111億円。地上3階、地下2階、延べ約2万5,000平方メートル。メーンホールは1,504人収容
1989/7/1
広島県原水禁などの県内86市町村を回る「反核平和の火リレー」がスタート
1989/7/1
テレビドラマ「千羽鶴なぜ飛ばぬ」のロケ始まる。佐々木禎子さんの両親も駆けつける
1989/7/1
北朝鮮平壌で始まった世界青年学生祭典で「ヒロシマ・ナガサキの原爆被害者とその子孫との会合」。全国原爆被爆教職員の会の石田明会長、広島県朝鮮人被爆者協議会の李実根会長が被爆体験を話す
1989/7/5
広島県黒瀬町の中野是重助役が在日ポーランド大使館を訪ね、町側の事情と経過を説明。大使館側は「博物館と黒瀬町の問題」と冷淡
1989/7/6
「米水爆搭載機水没海域での放射能異常は認められず」-。科学技術庁が中間発表
1989/7/6
米が水爆搭載機水没事件に関する核物質汚染について再回答。「核物質は30日以内に溶解、沈澱し深海底の高水圧の下で他の沈澱物に包まれている。その他の物質は1年から10年以内に完全に腐食」
1989/7/7
米オハイオ州ファーナルド核工場周辺の住民2万4,000人の損害賠償要求で、米政府が総額7,300万ドルを支払うことで和解。放射能放出に伴う財産価値低下などに対する補償。身体的影響は含まず
1989/7/7
広島市が広島平和記念都市建設法40周年で記念講演会。弁護士の寺光忠氏と建築家の丹下健三氏
1989/7/7
広島市の旧本川国民学校の被爆児童の中でただ一人生き残った居森清子さん(横浜市在住)が母校で当時の体験を話す
1989/7/8
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。モスクワ放送が伝える
1989/7/8
荒木広島市長が8日のソ連核実験に抗議文。10日、被爆者らが原爆慰霊碑前で座り込み
1989/7/8
日本原水協などの「国民平和大行進」長崎コースが長崎に向け広島を出発
1989/7/9
広島市などの24の市民グループでつくる「ピース・リンク広島・呉・岩国」が、米、オーストラリアの活動家を招き「水爆事故を問う」集会
1989/7/10
米議員や天然資源保護協会の専門家らが、1957年に起きたソ連「ウラルの大惨事」のチェリャビンスク北100キロのキシュティム工業団地を視察
1989/7/10
通産省・資源エネルギー庁が原子力発電所事故、故障を評価するため「原子力発電所事故・故障等評価委員会」を設置し、レベル0から8まで9段階のランク分け運用を開始
1989/7/13
第7次北米被爆者検診団(平田克己広島赤十字・原爆病院内科部長)が広島に帰着。サンフランシスコ、ロサンゼルス、シアトル、マウイ、ホノルルの5カ所で過去最高の406人の被爆者の検診や相談に当たる
1989/7/13
「核燃サイクル阻止1万人訴訟原告団」(代表、大下由宮子八戸工大助教授)が、日本原燃産業の青森ウラン濃縮工場の事業許可取り消しを求める行政訴訟を青森地裁に起こす
1989/7/13
ソ連チェルノブイリ原子力発電所事故を素材にした戯曲「石棺」の原作者でソ連共産党機関紙プラウダの科学部長ウラジーミル・グーバレフさんが戯曲の公演に合わせ広島市を訪問。原爆資料館を見学し、原爆慰霊碑に参拝。石棺は劇団俳優座と新人会が上演
1989/7/14
実弾入り手紙による本島等長崎市長脅迫事件で、長崎署が長崎県西彼杵郡琴海町の病院長を逮捕。「本島市政を刷新する会」代表
1989/7/14
北朝鮮にカン・ピョンテさんら5組の夫婦10人の被爆者-。広島県朝鮮人被爆者協議会の李実根会長が世界青年学生祭典で同国を訪れ確認。北朝鮮の被爆者確認は初めて
1989/7/15
東京・品川区の原爆ドーム保存募金が2カ月間で178万円に。目標を大きく上回る
1989/7/15
原爆被爆者の後障害追跡調査を学ぶため全ソ放射線医学研究センター(キエフ市)のオルガ・ツベトコーワ国際協力部長が放射線影響研究所で研修
1989/7/18
広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会(八者協)が国に被爆者施設の整備などを陳情
1989/7/19
広島市の尾立峯雄さんが原爆ドーム保存募金に250万円を寄付。個人最高額
1989/7/19
「ソ連の核弾頭は3万3,000個。1988年をピークに減少傾向」-。米の「天然資源保護協会」が発表
1989/7/19
動力炉・核燃料開発事業団が福井県敦賀市に建設中の高速増殖炉原型炉「もんじゅ」について、地元住民が国の原子炉設置許可処分の無効確認を求めた行政訴訟で、名古屋高裁金沢支部の井上孝一裁判長は原告適格を認め、福井地裁判決を取り消し、同地裁に差し戻し
1989/7/19
8月に広島市で公演する「ピースチャイルド広島89」の出演者、スタッフ40人が勢ぞろい。米、ソ、英、ベルギーの子どもたちも参加
1989/7/20
日本被団協、広島県生協連合会、日本婦人有権者同盟など8団体の「89市民平和大行進」が長崎へ向け広島を出発
1989/7/21
水爆搭載機水没事故で科学技術庁が「放射能異常値は検出されず」と安全宣言
1989/7/21
ソ連艦艇が初めて米の海軍基地を親善訪問。核搭載可能艦2隻と給油艦がノーフォーク基地へ
1989/7/22
広島市医師会が被爆者医療の歩み「ヒロシマ医師のカルテ」を発刊。「広島市医師会だより」に1970年から88年までに掲載した原爆関係記事から109編を収録
1989/7/23
原爆で息子を失った父の悲しみを歌った和洋合奏曲「広島の鐘」が、旧広島一中原爆死没者慰霊祭で19年ぶり演奏。広島市の益田玲助さんの9首の短歌に木戸全一さんが作曲
1989/7/23
広島市出身の作曲家細川俊夫さん(東京在住)が「ヒロシマ・レクイエム」を創作、新交響楽団が東京・サントリーホールで初演
1989/7/24
訪米中のアフロメーエフ・ソ連軍前参謀総長が、ソ連が配備を開始した列車移動式のICBM、SS4について「米側が同様のシステムを追求しないならSS24全廃の用意がある」とワシントン・ポスト紙に表明
1989/7/24
広島平和文化センターの被爆証言ビデオの本年度分50巻が完成、貸し出しを始める。胎内被爆者の畠中百合子さん、江戸家猫八さん、平山郁夫さんらが証言
1989/7/24
「チェルノブイリ原発事故の放射能汚染いまだに深刻。新たな避難も必要」。プラウダが報道
1989/7/25
「非核ネットワーク」(世話人、西田勝法政大教授)が「非核自治体は1,399。この1年、長崎市など82自治体が増える」と発表
1989/7/25
中米のベリーズが広島市に原爆ドーム保存募金10万円
1989/7/26
山口大ユネスコOBらの「平和キャラバン」が、山口市から広島市へ出発。学生隊の中止を惜しみ編成
1989/7/26
「ピカ資料研究所」(田原伯代表)と全国在日朝鮮人教育研究協議会が「資料・韓国人原爆犠牲者慰霊碑」を出版。建設場所選定をめぐる広島市との折衝経過、碑文塗り消しの実態、碑に関する風聞など現物資料を元に検証
1989/7/27
ワールド・フレンドシップ・センターが平和研究交流・教師交換事業で4人を米に派遣。広島市の佐々木伸幸さん、松島智子さん、広島県黒瀬町の貫名緑さん、長崎市の舟川澄子さん
1989/7/27
長崎の被爆者団体「被爆者手帳友の会」(深堀勝一会長)が平和記念式典に参列する厚相への要請を「何回やっても改善されず意味がない」と中止
1989/7/27
ソ連チェルノブイリ原発事故被曝者で骨髄移植をした患者13人中、3年後も生存は2人だけ-。カリフォルニア大ロサンゼルス校のロバート・ゲール教授を中心としたグループが発表
1989/7/28
ソ連のチェルナビン海軍総司令官がタス通信とのインタビューで「1989年4月のノルウェー沖事故以前の過去25年間に3隻の原潜が失われ、他の1隻が太平洋で沈没、乗員1人が死亡、後に引き揚げ」と公表
1989/7/28
大阪府枚方市の「平和の船」が広島港に入港。北牧一雄市長ら市民600人が慰霊碑巡り、原爆資料館見学。26日大阪港を出港、27日に長崎、28日広島
1989/7/28
米国原爆被爆者協会が米の核被害者と連携して国に援護法案提出の方針を決める
1989/7/28
広島県安芸郡熊野町議会が「非核・平和と生命を守る熊野宣言」を否決
1989/7/28
広島市の原爆死没者慰霊式・平和祈念式への宇野首相の出席が確定。退陣が決まった首相に賛否
1989/7/28
広島の高校生の核意識希薄化が進む-。広島県高教組が調査結果を発表。県内18高校、2,000人を対象
1989/7/29
ソ連ベラルーシ共和国最高会議が、チェルノブイリ原発事故の汚染地帯から新たに10万6,000人の避難を決定。対象は613市町村、3段階に分け実施
1989/7/29
笠岡市非核平和都市宣言啓発実行委員会(山本憲二会長)が広島市へ初の「親子平和学習バス」。親子15組45人が参加
1989/7/29
連合広島(森川武志会長)が広島市で初の「軍縮と核兵器廃絶を求める県集会」
1989/7/29
核禁会議が長崎で全国集会。「人類愛に基づく統一平和運動を」とアピール
1989/7/30
広島戦災児育成所の創始者山下義信氏が死去。95歳。呉市出身、浄土真宗本願寺派の特任布教使などを経て従軍。復員後、1945年12月、原爆孤児たちを養育する「広島戦災児育成所」を広島県佐伯郡五日市町に創設し、53年1月に広島市に移管するまで私財を投じて171人の孤児を育てた。47年、社会党から参議院議員(広島地方区)に当選、59年まで2期務め、原爆医療法制定に尽力
1989/7/30
平和記念公園の原爆の子の像前で第1回「原爆の子の像」碑前祭。広島市立国泰寺中の山本雅人教諭らが呼びかけ、市内の25中学校などが参加。広島「折鶴の会」碑前祭は参加者が少なくなり、10数年前から中止
1989/7/30
中国新聞が8月6日を中心にした各放送局の特集まとめる。NHK=衛星放送で「世界から広島へ・広島から世界へ」、5日午後3時から7日午前零時まで33時間の番組。ドラマ「失われし時を求めて」▽中国放送=核実験の埋もれた被害者オーストラリアのアボリジニーを取材▽広島テレビ=アウシュビッツ遺品問題をポーランドまで追う▽テレビ新広島、広島ホームテレビ=原爆ドーム保存募金
1989/7/30
原爆で父を失った声優堀絢子さん(東京都在住)が、神奈川県綾瀬市で自作の一人芝居を上演。父の利兵衛さんは美祢市で軍医召集を受け被爆死
1989/7/30
大津市から初の平和バスツアー。「ひろしまへいのちに出会う旅」。市民48人が参加
1989/7/30
広島の手話劇団「河」(杉野信晶団長)が、ろう被爆者をモデルにした「青い空-ほほえみをいつまでも」を上演。手話ボランティアの広島市の仲川文江さんがろう被爆者4人の体験をもとにシナリオを書く
1989/7/31
在米被爆者の半数以上が健康に不安を感じ、日本と同じ援護を希望-。米国原爆被爆者協会の調査で判明。調査に応じた226人の65%が米国籍、35%は日本国籍で米永住権を保有
1989/7/31
「核軍縮を求める22委員会」が非核三原則の立法化を目指し東京でシンポジウム。核兵器の国内持ち込み防止へ情報公開で国民監視システムの確立を図る
1989/7/31
核禁会議広島地方集会が広島市で開催。広島赤十字・原爆病院、広島市、医療法人愛人会などに計600万円を寄付
1989/7/31
広島平和記念公園内の被爆者慰霊碑「全損保の碑」(全日本損害保険労働組合)が盗まれる
1989/7/31
東京で原水禁国民会議の「被爆44周年原水禁世界大会」国際会議が「21世紀までに非核の世界を」をテーマに開幕。1986年以来、4年連続の分裂開催。初参加のポーランドをはじめ18カ国・地域、4国際組織の39人の海外代表が参加。中国は原水禁、原水協いずれにも参加せず
1989/7/--
広島市の外科医原田東岷氏が作詞した合唱曲「世界の命-広島の心」完成。作曲はシンセサイザー奏者の藤掛広幸さん。8月6日、パンフルートの岩田英憲さんが伴奏し「89海と島の博覧会・ひろしま」で初演
1989/7/--
原爆で2人の子供を失った広島市の語り部、故坂本文子さんの遺稿・追悼文集「紅梅」が完成
1989/7/--
米カンザス大演劇科の学生が広島県音戸町出身の堀田清美さんの書いた原爆劇「島」を公演し、公演料を堀田さんに送る。堀田さんは原爆ドーム保存募金に寄付
1989/7/--
岡山県英田郡作東町の福田寺大英さんが長崎市の被爆土を加えて焼いた「平和のつぼ」を7月14日から仏で開かれるサミット首脳に寄贈へ
1989/7/--
NHK広島放送局の原爆ドラマ「暁の人」のロケ撮影が進む。原爆症を苦に自殺をはかり記憶喪失した男性が主人公。脚本は早坂暁氏
1989/7/--
山口大ユネスコクラブが1971年から18年続けた「平和キャラバン」が、参加者不足で中止へ。毎年7月26日、山口市の原爆死没者の碑から広島市まで行進
1989/7/--
4月7日、ノルウェー沖で火災を起こし沈没したソ連のマイク級原子力潜水艦事故は「SOS発信を禁止していなければ全員救助できた」と、元潜水艦長メルコフ中佐がソ連週刊誌で海軍司令部批判
1989/7/--
広島市西区草津東に「小西ノブ子記念館」オープン。全国被爆者青年同盟(榊谷二郎委員長)などが建設委員会(宅和純会長)をつくり、小西さん宅を改造
1989/7/--
ソ連で原発事故多発-。1975年10月にはレニングラード原発で150万キュリーの放射能が大気中に漏れる。89年6月だけで運転一時停止事故が19回も
1989/7/--
広島市の医師原田東岷氏が原爆を素材とした4冊目の著書「ヒロシマのばら」を出版へ。未来社
1989/7/--
広島平和記念館で原爆ドーム保存募金運動に呼応し「原爆ドーム絵画展」。広島市に寄贈された絵画70数点のうち原爆ドームをテーマにした26点
1989/7/--
広島市と長崎市が第2回世界平和連帯都市市長会議で参加都市の国旗の掲揚やめる。「国の代表ではなく、利害が対立する場合もある」ため
1989/7/--
「被爆者の胃がんには悪性のものが多く、被曝線量が高くなるほど悪性胃がんも増える」。広島原爆被爆者健康管理所の伊藤千賀子副所長らが発表
1989/7/--
日本被団協が国の1985年被爆者実態調査に合わせて実施した「原爆被害者調査」の自由記述部分から、300人の肉親の被爆死について書かれた部分をまとめ「被爆者の死」を発刊
1989/7/--
広島被爆当日、大阪憲兵隊司令部から隊員150人とともに広島市に入った当時の憲兵隊長、冨田家陸さん(三重県松阪市)が「無量寿への道絶望から光明へ-一被爆者の記録」を出版
1989/7/--
呉市の画家渡部茂さんが被爆の惨状を描いた油絵「生死とのたたかい」を完成、広島平和記念館へ寄贈へ。呉海軍工廠の救援隊員として被爆4日後に広島市に入った光景を描く
1989/7/--
広島市の児玉辰春さんが被爆死した中学生の事実に基づく「まっ黒なおべんとう」を出版。同市佐伯区の折免シゲコさんと二男の滋君の物語

年別アーカイブ