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ヒストリー

ヒロシマの記録1987 5月


1987/5/1
YMCA国際平和研究所の新所長に副所長の永井秀明氏が昇格。1984年3月設立以来の相原和光所長は定年退職。相原氏は「一番の思い出は1970年、ノーベル賞受賞者のフィリップ・ノエルベーカー氏、湯川秀樹氏、朝永振一郎氏らを招いて開いたヒロシマ会議」
1987/5/1
広島市の荒木市長が30日の米核実験に抗議電報。被爆者らが原爆慰霊碑前で座り込み
1987/5/1
広島「折鶴の会」の会員らが3年ぶりに広島市を訪れた米人メアリー・マクミランさんと交流。マクミランさんは1939年、広島女学院の教師として着任、日米開戦直前に帰国。47年、再び広島を訪れ教壇に
1987/5/5
「原爆の図」の丸木美術館(埼玉県東松山市下丸子)が開館20周年。入館者55万人を突破
1987/5/5
仏がムルロア環礁で地下核実験。オーストラリア連合通信が伝える
1987/5/6
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。モスクワ放送が伝える
1987/5/6
荒木広島市長が5日の仏、6日のソ連核実験に抗議電報。8日、被爆者らが原爆慰霊碑前で座り込み
1987/5/6
日本被団協の機関紙「被団協」が創刊100号に。1976年1月に第1号が発刊され、79年6月から月刊
1987/5/7
日本青年団協議会、日本生協連、日本山妙法寺など10団体が独自の平和行進を断念。生協連が「地域によっては日本原水協主体の国民平和大行進と一緒に歩くこともあり得る」と主張したため
1987/5/7
米平和活動家ローダ・エバンズさんが「ソ連がレニングラード-モスクワ平和行進を許可」と発表
1987/5/7
原水禁国民会議が「被爆42周年原水爆禁止世界大会」実行委員会を結成。1987年は日本原水協と合わせ2つの世界大会に。原水禁国民会議が「世界大会」の名称で集会を開くのは78年以来9年ぶり
1987/5/7
福島県立医大の塚原進名誉教授が「原爆の発する強い磁力線で、被爆者は地下にいても強烈な光『ピカ』を感じたはず」と発表
1987/5/9
中国・四川省広播電視庁取材団の5人が原爆資料館を取材
1987/5/9
原水禁国民会議の非核・平和行進が青森県下北郡大間町を出発。広島まで2,100キロを87日間かけ歩く
1987/5/9
東京芸大講師で作曲家の遠藤雅夫さんが原爆詩をもとに合唱組曲「石の焔」を作曲し、明治大学グリークラブの学生が歌う
1987/5/9
パナマ国軍司令官のマヌエル・ノリエガ将軍一行25人が原爆慰霊碑に献花し、原爆資料館を見学
1987/5/10
日本原水協などの国民平和大行進が東京・夢の島の第五福竜丸展示館前から広島に出発
1987/5/10
米ネバダ核実験場で母の日を記念し反核活動家、主婦ら3,500人が米の核実験に抗議。実験場不法侵入などで750人が逮捕。米映画「地獄の黙示録」の主演男優マーチン・シーン氏も
1987/5/12
米下院が1988会計年度の戦略防衛構想(SDI)予算を、87年度予算を下回る31億ドルに修正
1987/5/12
ニューヨーク在住のシュリ・チンモイ師が呼びかけたピース・ランが平和記念公園に到着。4月27日、札幌市をスタート、5月16日に沖縄県糸満市に到着予定
1987/5/13
社会、公明、民社、社民連の野党4会派が、衆院に「原子爆弾被爆者等援護法案」を提出。前年に続き共産党は加わらず
1987/5/13
日本聖公会発足100周年で来日中の米聖公会のエドモンド・ブラウニング総裁司教が広島市を訪れ、平和記念公園で平和の祈り。原爆慰霊碑に参拝
1987/5/14
修学旅行で広島を訪れた京都市立中京中学校の3年生が原爆慰霊碑前で創作詩を朗読
1987/5/14
英が欧州の中距離核戦力(INF)全廃と短距離核ミサイル削減を目指すソ連軍縮提案の条件付き受け入れを発表。(1)厳格な検証の実施(2)西ドイツ空軍の保有するパーシング1Aミサイル72基を削減対象から除外-などが条件
1987/5/15
1年前に在外被爆者支援連帯ヒロシマ委員会(石田明代表)の招きで広島で里帰り治療を受けた在米被爆者メリー・ホンダさん(カリフォルニア州ティブロン)が心臓まひで死去。58歳。二世のホンダさんは日本で教育を受けるため一時帰国、進徳高女に在学中、学徒動員で爆心地から500メートルの近距離で被爆
1987/5/15
衆院社会労働委員会で斎藤十朗厚相が被爆者対策について「高齢被爆者対策に重点」と表明
1987/5/15
広島「憩いの家」(田辺耕一郎代表)を支援する「文芸家・画家・名士色紙書画展」が、広島市の書店で始まる。田辺氏は「憩いの家を被爆者の心の拠り所として守りたいが、私も高齢だし」と懸念
1987/5/15
スペイン財団センターのサエンス・デ・ミエラ会長が、広島市に「原爆資料をスペインで展示し、平和の尊さを訴えたい」と要請
1987/5/15
「ソ連・ボルゴグラード市の姉妹縁組団体ピオネールに平和のメッセージを届けて」-。広島「折鶴の会」(河本一郎世話人)が姉妹都市縁組15周年でボ市を訪れる代表団に千羽づるなどを託す
1987/5/15
韓国の李奎浩駐日大使、呉壬烈駐下関総領事ら5人が広島市の韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝。李大使「慰霊碑が公園の外にあるのを直接見て衝撃を受けた。広い公園の一角にでも建てさせてもらえなかったのだろうか」
1987/5/16
映画製作会社「遊学舎」(東京、安田和好社長)が製作していた反核学習用アニメーション「核戦争」が完成し、広島映画センターが貸し出し始める
1987/5/16
イラクのラシード・アルリファイ駐日大使が原爆資料館を見学し、原爆慰霊碑に参拝
1987/5/16
シラク仏首相がモスクワで「ソ連首脳との会談では欧州中距離核戦力(INF)と短距離核戦力を全廃するとのソ連提案を支持しなかった」と表明
1987/5/17
ヒロシマ通訳者グループ(HIP)が広島市内の原爆遺跡巡りをしながら英語の説明法を研修
1987/5/18
米ニューヨーク州の自然史博物館の同好会92人が広島市の1万トンバースに到着。原爆ドームや原爆資料館を見学
1987/5/18
「ストップ・ザ戦争への道!広島講座」(宗像基代表)など4団体代表が広島市に「平和記念公園に、広島がアジア侵略戦争の前線基地になった加害の歴史を示す資料を展示すべき」と申し入れ
1987/5/18
修学旅行で広島市を訪れた大阪市立中島中、同淡路中の生徒らが原爆資料館に「なぜ朝鮮人が広島にきて被爆したかを示す資料展示を」と申し入れ
1987/5/18
チェルノブイリ原発事故で被曝した周辺住民の健康被害を追跡する国際会議がウィーンで開催。日本から放射線影響研究所の加藤寛夫疫学部長が参加。ソ連は13万5,000人の健康調査登録カードを作成し、追跡
1987/5/19
広島県味噌協同組合が「味噌の放射能排出効果」について広島大原医研に調査を依頼。同研究所放射能誘発癌研究部門の伊藤明弘教授が3年計画で研究へ
1987/5/19
ソ連のゴルバチョフ共産党書記長が「米が日本、韓国、フィリピンに配備の核兵器を撤去すれば、ソ連もアジア配備のINF全廃に応じる」と表明
1987/5/20
仏がムルロア環礁で地下核実験。オーストラリア連合通信(AAP)が伝える
1987/5/20
ソ連ボルゴグラード市との姉妹都市提携15周年を記念し「広島市友好訪ソ団」(団長・宮本正夫市議、59人)が広島を出発
1987/5/20
ソ連の訪日青年観光団(297人)が客船プリアムーリエで広島港に到着。ロシア共和国の子どもたちが折った折りづる2万羽を原爆の子の像にささげる
1987/5/21
ミッテラン仏大統領がソ連の欧州中距離核戦力(INF)全廃提案の受け入れを示唆
1987/5/21
荒木広島市長が20日の仏核実験に抗議電報。23日、被爆者らが原爆慰霊碑前で座り込み
1987/5/21
ノーベル平和賞受賞作家で米ボストン大教授のエリ・ウィーゼル氏が広島市を訪問。ノーベル賞賞金の一部を基金に「1989年、広島市で人類のためのヒロシマ会議を開きたい」と同市に協力を申し入れ。ルーマニアのユダヤ人家庭に生まれ1944年、家族とともにアウシュビッツ強制収容所に送られる。母親と妹をガス室で殺され、父親も別の収容所で病死。この体験をもとに戦後「夜」などの作品を発表。22日、原爆資料館を見学
1987/5/21
中国共産主義青年団の10人が原爆資料館を見学、慰霊碑に参拝
1987/5/21
荒木広島市長が東西ドイツとソ連の5市に「ヒロシマの願い」を訴えるため広島を出発。ボルゴグラード市の「ヒロシマ・デー」、ハノーバー市の世界平和連帯都市市長会議理事会、東西両ベルリン市のベルリン誕生750周年記念式典、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)モスクワ大会の最終日にそれぞれ出席へ
1987/5/22
米訪問中の「ヒロシマ花の使節団」(ひろしまフラワーフェスティバル)のミスフラワー2人がニューヨークの国連本部を訪ね、アティア・ティアー儀典長夫人に広島から持参したランの花束を手渡す
1987/5/23
東ドイツのライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団の120人が原爆慰霊碑に献花
1987/5/23
中止となった市民団体平和行進に代わり、日本山妙法寺主催の東京-広島-長崎平和行進が東京・夢の島を出発
1987/5/23
ソ連ボルゴグラードで「ヒロシマ・デー」。25日まで
1987/5/24
仏映画俳優のアラン・ドロンさんがカトリーヌ夫人と原爆慰霊碑に参拝。「3年前来たときに比べ、慰霊碑、公園がきれいに」
1987/5/24
厚生省が1985年秋実施した「原爆被爆者実態調査」の概要が明らかに。平均年齢が59.9歳になり、4割を超す被爆者が入院、通院中。寝たきりも7,200人
1987/5/24
広島市の姉妹都市ソ連ボルゴグラード市で「ヒロシマ通り」の命名式。市中心部から北西約2.5キロにある長さ600メートル、幅約100メートルの道路。高さ5メートルの記念碑の下に広島の被爆石を飾る
1987/5/24
ヨーロッパ各地でヒロシマ原爆資料展相次ぐ。▽ソ連ボルゴグラード市=24~28日。広島市との姉妹都市提携15周年を記念▽モスクワ=25日から2週間。国連広報局が主催し「現代核の脅威展」。本島等長崎市長らも出席。ボリショイ劇場では29~6月1日、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の第7回世界大会に合わせ日本支部主催の原爆資料展▽西ドイツ・ハノーバー市=27、28日。世界平和連帯都市市長会議理事会に合わせ資料展
1987/5/25
国連軍縮局、創価学会インタナショナル、ソ連平和擁護委員会が主催する「核兵器-現代世界の脅威展」がモスクワで始まる。ソ連で初の被爆資料展。開会式には本島等長崎市長、池田正彦広島市長室長らが出席。ねじれたガラス瓶など150点を展示。6月7日まで。連日、6,000人を超す入場者。「脅威展」は1982年にニューヨークで第1回が開かれ、その後、パリ、ニューデリー、北京など13カ国、16都市で開催。主催者側はソ連開催を強く希望、ソ連がやっと応じる
1987/5/26
ヒロシマの意味を見つめ直す「市民講座ヒロシマ」が結成総会。発起人は広島県被団協の森滝市郎理事長、藤崎徳雄県労会議議長、好村冨士彦広島大教授、宗像基キリスト教社会館長ら7人
1987/5/26
ソ連ボルゴグラード市を訪問中の「広島市友好訪ソ団」がボ市と市民レベルの平和交流促進を盛り込んだ共同コミュニケ発表
1987/5/26
広島市でヒロシマルネッサンス美術協会代表、浜本武一さんの「ヒロシマ鎮魂歌」展
1987/5/26
日本原燃産業が、青森県上北郡六ケ所村に計画している商業用ウラン濃縮工場について、内閣総理大臣の建設許可を求める「核燃料物質加工事業許可申請」を科学技術庁に提出
1987/5/26
原爆投下直後に広島市北西部に降った「黒い雨」の降雨地域は従来の調査の2倍-。元気象研究所予報研究室長の増田善信さんが筑波大での気象学会で発表
1987/5/27
被爆者への諸手当を平均0.7%引き上げる被爆者特別措置法一部改正案が参院本会議で全会一致で可決、成立
1987/5/27
米下院議員2人が米が最初に核攻撃を仕掛けないようレーガン大統領に求める核使用差し止め請求訴訟をサンフランシスコ連邦地裁に起こす。カリフォルニア選出のドゥラムズ、エドワーズ両議員
1987/5/28
西ドイツ・ハノーバーで開催中の世界平和連帯都市市長会議の理事会が1989年の第2回会議を、第1回に続き広島、長崎市で開催決定
1987/5/29
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の第7回世界大会がモスクワで始まる。各国から3,000人が集まり、日本から杉本純雄広島県医師会長ら22人参加
1987/5/29
共産党広島市議団が広島市の福島隆義助役に「黒い雨」の地域指定拡大を申し入れ
1987/5/30
語り部15人でつくる「ヒロシマを語る会」(北川哲代表)が地元高校生に呼びかけ「高校生とヒロシマを語る集い」。高校生40人が参加
1987/5/--
1986年度の原爆資料館の入館者数は142万6,160人。85年度に比べ1万5,759人減。82年に統計をとり始めて以来、初めて修学旅行生が前年度に比べ減少。1万1,548人減の56万1,524人に
1987/5/--
広島市の石原シズエさんが市に寄付した2,200万円の遺産をもとに市が五日市町の養護老人ホーム喜生園にコミュニティーホーム「ふれあいの家」を建設
1987/5/--
「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」会長の江口保さんが「ヒロシマ、ナガサキの修学旅行を手伝う会通信」を発行。全国の教師へ送る。年4回発刊へ
1987/5/--
健康診断などのため32年ぶりに日本に帰国したブラジル被爆者協会(森田隆理事長)の松石邦夫理事が「海外被爆者への援助拡充」を訴え
1987/5/--
米の平和団体「チルドレン・アズ・ザ・ピースメーカー」が、世界中の戦争で亡くなった子どもたちの名を書いた横断幕をつくり平和を訴え。日本支部長、故谷本清さんの長女の近藤紘子さんが呼びかけ
1987/5/--
元広島女学院大講師の米女性ドロシー・ストループさん(カリフォルニア州)が、広島の被爆者一家を7年がかりで描いた英文の小説「INTHEAUTUMNWIND」(秋風に)を米の大手出版社チャールズ・スクリブナーズ・サンズ社から出版。1960年、広島女学院大と同高校の講師として赴任、3年間の広島滞在中に原爆問題に関心
1987/5/--
自殺を考えた浜松の女高生が、広島平和文化センターの語り部小松清興さんの「原爆孤児になり、大阪で継母にいじめられ広島に逃げ帰った。原爆の後遺症で3度自殺を図った」との証言など聞き、「生きてがんばる。教師になり子どもたちを広島に連れて来たい」と手紙
1987/5/--
原爆文学の資料や遺品を収集・公開する「ヒロシマ文学館」建設運動盛り上がる。「広島の文学資料保全のための行動事務局」が署名運動
1987/5/--
チェルノブイリ原発事故の記録映画を製作したソ連のシェフチェンコ監督が2カ月前死亡-。ソ連週刊誌が報道。カメラマン2人も入院中

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