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ヒストリー

ヒロシマの記録1987 6月


1987/6/1
東京・中野区が東ドイツのドレスデン、マグデブルク両市と「非核共同宣言」。共産圏都市との非核宣言は初。同区はロンドンとも宣言
1987/6/1
1989年の核戦争防止国際医師会議(IPPNW)第9回世界大会の広島開催が正式決定。モスクワでの第7回大会閉会総会で承認
1987/6/1
モスクワで開催中の核戦争防止国際医師会議(IPPNW)第7回世界大会で、広島市の被爆者松重美人さんが被爆体験を証言。会場には松重さんの写真を含め40点の被爆写真展示
1987/6/2
イタリアのオペラ歌手カルロ・ベルゴンツィさんが妻のアイミ・アデーレさんと原爆慰霊碑に参拝、資料館を見学
1987/6/3
広島県が「黒い雨」の降雨地域見直しを検討へ。広島県原水協の要望にこたえる
1987/6/3
6月下旬にソ連レニングラード-モスクワ間で行われる平和行進に広島市の「平和の灯」の参加が決まり、ロサンゼルス高野山米国別院で採火式。広島県出身の旭清澄開教師が行進参加のジュディ・イマイさんに分灯
1987/6/4
メキシコ人画家のアマドール・ルーゴさんが広島市で個展。4年前に同市を訪れ衝撃。「人類の犠牲」「汚染された大地と空気」などの作品を描いて展示。8日、広島市に「人類の犠牲」を贈る
1987/6/4
神奈川県藤沢市の洋画家矢田健爾さんが広島原爆病院に自作の「鎮守の森」を贈る
1987/6/4
ニュージーランド議会が核艦船の寄港禁止などを含む「非核地帯、軍縮、軍備管理法」を過半数の賛成で可決。核爆発装置および廃棄物の保有、実験、貯蔵を禁じ、核兵器積載または原子力艦船と軍用機の来訪を禁止
1987/6/5
厚生省が1985年実施の「原爆被爆者実態調査」結果を発表。対象は被爆者健康手帳保持者36万6,672人。86.7%の31万3,499人が回答。高齢化に伴い就業率が48.6%に減り、入院中4.2%、通院中38.4%に上る
1987/6/5
荒木広島市長が中国核実験に抗議電報
1987/6/5
全国ほたる研究会のメンバーが、結成20周年を記念し、広島市三滝の原爆無縁墓で全国から持ち寄ったホタル1,300匹を放し犠牲者のめい福を祈る
1987/6/5
中国がロプノル核実験場で地下核実験を実施。スウェーデンのハグフォルス軍地震観測所が発表。1984年12月以来、2年半ぶり。趙紫陽中国首相は86年、大気圏核実験の中止を宣言
1987/6/6
日本被団協が東京で総会を開き、「平和基金」の設立を決め、被爆者援護法制定など訴え。基金は前年、静岡の宗教団体からあった8,000万円の寄付を基に設立。8日、厚生省に被爆者対策充実を要望
1987/6/6
荒木広島市長がソ連核実験に抗議電報
1987/6/6
広島合唱団(大野正信団長)が広島市で「核兵器廃絶のためのコンサート」。日本原水協などが1985年に採択した「核廃絶へのアピール」に同市のアマチュア作曲家高田竜二さんが曲をつけ披露
1987/6/6
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。タス通信が伝える
1987/6/6
東広島市の東広島ライオンズクラブが、現地ライオンズクラブの協力を得て台北市で台湾初の原爆資料展。被爆した衣服などの資料30点と原爆写真、広島市民が描いた原爆の絵の複製50点など。3日間に1万人
1987/6/6
広島市職労の佐藤光雄委員長を団長とする「ニュージーランド非核の政府視察団」が日本を出発。統一労組懇自治体部会のメンバー18人が参加
1987/6/6
「世界の核被害に対する認識を深めよう」と東京でシンポジウム。9月末にニューヨークで初めて開く核被害者世界大会に備え、原子力資料情報室の高木仁三郎氏や埼玉大の市川定夫教授らが報告 1987/6/6
長崎市で広島、長崎、大阪の被爆二世教職員が「全国原爆被爆二世教職員の会」の結成準備会。広島高等学校原爆被爆二世教職員の会、広島県原爆被爆二世教職員の会準備会、長崎県原爆被爆二世教職員の会、大阪府原爆被爆二世の会が参加
1987/6/6
仏がムルロア環礁で地下核実験。オーストラリア連合通信が伝える
1987/6/7
荒木広島市長が仏核実験に抗議電報
1987/6/7
広島市のオルガン奏者日山かおるさんが3カ月かけヨーロッパ6カ国26都市で反核演奏旅行へ。出発に先立ち世界平和記念聖堂で演奏会。6月20日のオーストリア・キルプ市を皮切りに各国を回り、9月18日の西ドイツ・ドルトムント市で締めくくる
1987/6/7
広島市で開かれた第28回原爆後障害研究会で、放射線影響研究所が「上皮小体が放射線を浴びたことによって人体のカルシウムが異常に増える上皮小体機能亢進症(HPT)の被爆者が増える傾向にある」と報告。同研究所長崎支部は「被爆者の皮膚がんが増加傾向」と発表
1987/6/7
被爆者らが5日の中国、6日のソ連核実験に抗議し原爆慰霊碑前で座り込み
1987/6/7
レバノンの反戦歌手カーリド・ハベルさんが原爆資料館を見学、語り部の沼田鈴子さんと交流
1987/6/8
米ソ市民400人のレンニグラード-モスクワ平和行進始まる
1987/6/9
フィンランドのカンタービレ室内合唱団(23人)が原爆慰霊碑に参拝し、同国の伝統的聖歌で平和を祈る歌「海の星よ」をささげる
1987/6/9
放射線影響研究所が理事会開く。新しい広島、長崎の原爆放射線量計算システム「DS86」についてチャールズ・エディントン副理事長が報告。メンバー9人が移転候補地の広島市千田町、広島大工学部跡を視察
1987/6/9
広島県被爆教職員の会の石田明会長と広島平和教育研究所の空辰男理事長が、東ドイツ・フンボルト大の招きで東ベルリンへ出発
1987/6/9
米イリノイ州ブルーミントン市にあるイリノイ・ウェスレヤン大の准教授レイモンド・G・ウィルソン氏(物理学)が「広島に世界平和研究の施設を」と中国新聞に寄稿。1983年と86年の2度広島を訪問
1987/6/9
広島平和文化センターが被爆証言ビデオで、自らも傷つきながら被爆者の救援、看護に尽くした広島赤十字病院の元医師や看護婦の証言を収録。元歯科医長の山崎晃さん、同看護婦長絹谷オシエさんら6人
1987/6/9
広島県被団協の森滝市郎理事長らが6日の仏核実験に抗議し、原爆慰霊碑前で座り込み
1987/6/11
放射線影響研究所の理事会が移転協議開始で合意
1987/6/11
ゴルバチョフ・ソ連書記長が核実験制限で新提案。「地下核実験の規模を1キロトン以下、回数を年2、3回に」
1987/6/11
広島市で在日ソ連大使館が「第19回ソビエト映画祭」。反核映画「死者からの手紙」を含む4本
1987/6/11
広島市立本川小の被爆校舎の取り壊し始まる
1987/6/12
動物を主役に平和を訴える長編人形アニメーション映画「SOSこちら地球」が完成、広島市で試写会。河野秋和監督。共同映画全国系列会議製作
1987/6/13
日本被団協、生協連、青年団協議会、地婦連など10団体が東京で「平和運動市民団体会議」を開き、夏の原水禁運動について協議
1987/6/13
広島市で「非核の政府を求める会」の結成総会
1987/6/13
元気象研究所研究室長の増田善信さんが「黒い雨」の降雨地帯確定のため、広島県佐伯郡湯来町などで現地調査。15日、広島県、市の担当官と意見交換
1987/6/13
イタリア人のテノール歌手ジュゼッペ・ディ・ステファノさんが原爆資料館を見学、慰霊碑に参拝
1987/6/13
広島市でルーテル平和委員会が主催し「原爆の図」の丸木位里、俊夫妻のチャリティーサイン会
1987/6/14
徳山市内のママさんコーラスグループ「コールビリア」が、原爆小頭症の娘を残して亡くなった母の心情を組曲「母の叫び」で披露。沖縄県那覇市の芝憲子さん作詞、山口県美東町の宮原豊さん作曲
1987/6/14
広島実験劇場の第9回公演。創作バレエで平和を訴える「ガイヤウォーズ」(吉田文五氏作)を松本ナツ子、西梶真理子さんが振り付け
1987/6/15
レーガン米大統領がテレビで演説し、中距離核戦力(INF)の大幅削減と「地上配備の短距離核の全地球的撤廃」を正式提案し、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の提示した欧州配備のINF、短距離核全廃を基本的に受け入れ
1987/6/15
「黒い雨・自宅看護」原爆被害者の会連絡協議会の花本兵三会長ら20人が、広島県と広島市に黒い雨地域をすべて被爆地として認めるよう申し入れ
1987/6/16
広島県医師会などが派遣する第6次在米被爆者検診医師団(坪倉篤雄団長)が広島を出発。19日からサンフランシスコで検診始める。ビザ発給に際し初めて在日米総領事館が(1)医療行為をしない(2)営利行為をしない-などを注文し、発給が大幅遅れ
1987/6/17
来日中のスペイン国立管弦楽団の130人が原爆慰霊碑に献花。ギタリストのナルシソ・イエペスさんが「禁じられた遊び」を慰霊碑前で演奏。「ギターを日光から守ることより、今ここで弾くことが大切。神に平和を願いながら演奏した」
1987/6/18
米がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表
1987/6/19
荒木広島市長が米核実験に抗議電報
1987/6/19
中曽根首相が「ソ連がアジア地域の中距離核戦力(INF)100基にこだわる場合、米は対抗措置としてアラスカに100基配備」との米を支持していたことが明らかに。野党などは「暴言」と反発
1987/6/20
米がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表。「核兵器の効果測定が目的」
1987/6/20
荒木広島市長がソ連核実験に抗議電報
1987/6/20
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。「軍事技術の向上が目的」。タス通信が伝える
1987/6/21
「被爆者家庭訪問をすすめる会」(小林三枝子代表)が、月1回の一斉被爆者訪問始める
1987/6/21
在韓被爆者治療に打ち込んだ元核禁会議議長の河村虎太郎医師が前立腺がんのため死去。73歳。広島県東城町出身。韓国慶尚北道に生まれ「第二の古里韓国のため、韓国をよく知っている自分が日本人の責任として何とかしなければ」と在韓被爆者治療に当たる
1987/6/21
広島県原水禁や被爆者が18日の米、20日のソ連核実験に抗議し、70人が原爆慰霊碑前で座り込み。通算350回目で吉野誠さんの座り込みのスケッチ20枚を展示
1987/6/21
広島市の画家吉野誠さんの核実験抗議座り込みスケッチが100枚に。1984年6月15日から描く
1987/6/21
荒木広島市長が米核実験に抗議電報
1987/6/22
長崎県被爆者手帳友の会が全国で初めて「被爆二世」の健康状態調査(「長崎年表」)
1987/6/22
広島平和文化センターが呼びかけ、修学旅行生らに被爆体験を伝える語り部の懇談会設置の準備会が、広島平和記念館で開催
1987/6/22
荒木広島市長が仏核実験に抗議電報(「広島市核実験抗議文書発信状況綴」)
1987/6/22
仏がムルロア環礁で地下核実験。ニュージーランドが発表
1987/6/23
日本被団協の伊藤サカエ代表委員ら5人と日本婦人団体連合会の40人が、ソ連モスクワで始まった「87世界婦人大会」に出席、原爆の惨禍訴える
1987/6/23
中国新聞が、被爆で生き別れとなりブラジルと大阪へ移り住んだ「爆心の兄弟」の連載始める
1987/6/23
大阪市の市立中島中学校の3年生が被爆の語り部にささげる詩を木文字で表現、「ヒロシマを語る会」(北川哲代表)に贈る。語る会は広島平和会館に寄贈
1987/6/23
広島市で「市民講座ヒロシマ」が初例会。広島県被団協の森滝市郎理事長が「被爆者のからだとこころ」と題し講演
1987/6/23
広島市立翠町中学の江種祐司教諭らが、代表的な平和の歌37曲の歌詞、楽譜に伴奏をつけた伴奏譜を広島平和教育研究所から出版。「原爆を許すまじ」「夾竹桃のうた」「にのしま」「青い空は」「死んだ女の子」など
1987/6/24
被爆者らが22日の仏核実験に抗議し原爆慰霊碑前で座り込み
1987/6/26
広島県佐伯郡湯来町議会が「原爆・黒い雨降雨地域の抜本的見直しを求める」意見書を採択
1987/6/26
ギリシャ新民主党の有力議員ジョン・パレオクラサス議員が原爆資料館を見学
1987/6/27
広島電機大付属高校の大亀信行教諭が、大阪市で開かれた第15回全国平和教育シンポジウムで「原爆投下直後の火災で広島市上空の空気が暖められた結果、瀬戸内特有のなぎが2日間にわたって起きなかった」と報告
1987/6/28
原爆乙女の渡米治療で、親代わりに世話をしたニューヨークの女性社会活動家ルース・B・ペレラさんが交通事故で死去。「原爆投下は米全体の責任。市民としてできるだけのことをしたい」と乙女たちを世話
1987/6/28
中国放送がラジオ特別番組「集団疎開~神崎国民学校の場合・吉木へ行こう」を放送。1945年4月から原爆投下の日を挟み半年間、広島県山県郡豊平町吉木に集団疎開した神崎国民学校の児童と引率教師の戦後を追う
1987/6/28
広島生まれのロシア系米人ニコライ・パルチコフさん夫妻が東京-広島間の反核自転車ツアーに出発。1924年、広島在住ロシア人家庭に生まれ、40年、高校進学のため渡米。広島女学院音楽教師の父がスパイ容疑で投獄されたと聞き、米で兵役を志願。45年9月上旬、連合軍兵士として来日し、広島で父親らと再会。今回は「原爆を投下したことが恥ずかしい。広島の人たちに謝罪したい」と来日
1987/6/30
米がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表。公表実験回数は668回に
1987/6/--
広島市教委が爆心地近くで倒壊を免れた本川小学校の校舎一部と地下室の保存決める
1987/6/--
米ネバダ核実験場を管轄するネバダ州ナイ郡検事局が核実験場の不法侵入者の刑事訴追を取りやめ。相次ぐ逮捕者で法廷まひが理由。最高刑の禁固6月または罰金1,000ドルは有名無実に
1987/6/--
児童文学作家の大野允子さんが原爆で亡くなった広島の子供たちを追憶する原爆童話「いないいない、いない四つのひろしま物語」を刊行。国土社
1987/6/--
西暦2000年には全国の被爆者は約21万人。日本被団協の伊東壮代表委員(山梨大教授)が推計。1985年31万3,000人、90年27万9,000人、95年24万5,000人
1987/6/--
広島市医師会長の初代会長で自らも被爆しながら市民の治療に当たった故今川卓治医師の体験記「被爆医師今川卓治」が出版
1987/6/--
広島平和教育研究所が初の「PEACEハンドブック」を製作。「夏休みに親子で平和や核を考える材料に」と呼びかけ
1987/6/--
米のバーバラ・レイノルズさんの英文の手記「ハトと不死鳥」(THEPHOENIXANDTHEDOVE)を「長崎を世界に伝える会」(秋月辰一郎会長)が出版
1987/6/--
広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会(八者協)が1988年度被爆者対策予算で、在宅援護に重点を置いた陳情骨子決める
1987/6/--
広島県立広島ろう学校が同校の被爆史づくりを始める。1945年4月、同県高田郡吉田町に集団疎開、疎開先から戻ったのは46年12月。疎開しなかった生徒2人と教師3人が被爆したが、氏名など詳細は不明

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